0407
部屋のカレンダーが3月のまま一週間が経ってしまった。コロナ禍になってからというもの毎日がぼんやりとしていて平日と休日のメリハリがなくなってただどんどん時間が過ぎゆくのを感じる。メリハリつけたくても外出するのも人と会うのもなんとなく憚られて、映画を見てても画面の向こう側の人たちがマスクもつけず雑踏を歩いていたり密になっているのを見ると違和感を感じるようになってしまった。ある意味自分の適応力の高さを感じる。
先日、友人と久しぶりに映画を観に行った時に先に映画館についていた友人が、今まで一度もかじったこともないエヴァのパンフレットを買っていた。ちなみにこれから観る映画もエヴァではない。
「職場の先輩が観たって言ってて、パンフレット売り切れてて買えなかったって言ってたのにここに来たら売ってたからなんかつい買っちゃった」と無邪気に笑う顔がサプライズに成功した子供みたいで可愛くてわたしも釣られて笑った。
映画館に映画を観にきてパンフレットを買ったことは今までに一度しかない。昔ライアーゲームというドラマを観て、謎めいてクールな松田翔太に心を奪われていたことがあり、映画化したときは人生で初めて同じ映画を2回観に行ってパンフレットを買った。原作も履修せねばと漫画も買った。けれども2回目に観た時は前日の夜更かしが祟って途中で寝てしまって気が付いた時にはエンドロールだった。
そんなわたしがこの度人生で2冊目の映画のパンフレットを買った。その日観た映画のものではなく、先日観た「花束みたいな恋をした」のパンフレット。観に行ったのは2月の頭だったからパンフレットなんてもう置いてないだろうと思っていたのに友人につられてパンフレットの並んでいる壁をぼんやり眺めていたら見つけたのでびっくりした。
あの映画を観た人ならわかると思うけれど作中で2回も出てくる今村夏子の「ピクニック」という短編小説を読んでみたいと思わないサブカルチャー好きは少ないんじゃないだろうか。作中で主人公の麦くんと絹ちゃんが「きっと今村夏子のピクニックを読んでも何にも感じない人たちなんだよ!」と所謂「世間的な理不尽な大人たち」を揶揄するシーンがある。そのシーンを見たときに自分は漠然と「大人たち」の側ではなく、麦くんや絹ちゃん側の人間なんだろうな、きっと読んだら「何かすごいものを感じる」んだろうな、と思った。
映画を観た後にすぐに今村夏子の短編集を買い、「ピクニック」を読んだ。読後、わたしの頭の中ははてなでいっぱいになり、思わず「何が正解なんだ?」と思わずにはいられなかった。大学時代からお世話になっている感性の近い先輩も同じ映画を観に行ったと聞いたのですぐさま本を渡して、「何を感じたか、教えてください」と言った。結果、わたしたちの感想は、たぶん「大人たち」側だった。麦くんと絹ちゃんがあの物語を読んで何を感じ取ったのか、正直よくわからなかった。だからわたしたちは呆然と「何が正解なのかわからない」という物語を読む上で一番ナンセンスな「正解探し」の話をしたが、結局正解はわからないままだった。
それから何日か経った後に、先輩から「どうやら映画のパンフレットに二人がピクニックを読んでどんな感想を抱いたのかのヒントが少し仄めかしてあるらしい」という連絡がきた。これまでも好きになった漫画のファンブックとか沢山買ってきたけど買ったことに満足して推しの解説ページ以外ろくに読んだ試しなしだったので、買ったところで最初に気になるページだけ見てあとは本棚に眠るだろうことを考えると正直パンフレットを買うのはなんだか腰が重かった。
そんな経緯でパンフレットをわざわざ買いに映画館に行くのはな、ていうかそもそももう売って無いんじゃなかろうか、と思っていたパンフレットと出会えたのでちょっと悩んだけどこれも何かの縁と思って結局すぐに購入した。
今日はそのパンフレットの中の先述した「ピクニック」への正解がどうのという話ではなく、三浦しをんが寄稿している「分身と演技」という映画のレビューの中の文章がめちゃくちゃ良くて、この映画を観た後の何とも言えない充足感と喪失感はこれだ!と思ったので紹介したいなと思います。
好きな小説や音楽などについて夢中で語り合う二人。脳みそがとろけあい、お互いが自分の分身のように感じられる喜びと快楽。(中略)価値観や好みを驚くほど共有できるひと(友だちでも恋人でも、関係性はなんでもいい)と出会い、一心不乱に創作物や生活上のささいな疑問についておしゃべりするときの楽しさ。自分はひとりぼっちじゃなかったんだと確信するときの心強さと高揚感は、なにものにも替えがたい。
好きなものの話を気の合うひとたちとおしゃべりしているときの充足感を「脳みそがとろけあい」って表現しているの「わかる!」の一言に尽きる。あの満たされ方は確かに脳みそがとろけあっているって言葉がしっくりくる。そしてそれはそんな相手だからこそ感じられるものだから、何もお互いに共通の好きなものの話だけに留まらず、日常の本当に取るに足らないことだって相手があなたなら、全てのおしゃべりが脳みそがとろけあうような充足感に満たさせれた素晴らしい時間になる。その通り。
さらに二人が別れたあとのことをこう述べていることに最近わたしがうっすらと考えていたことがわかりやすく文章になって出迎えてくれたような気がした。
かつて、かけがいのない分身がいた。好きな創作物や日常で感じたことを共有し、脳がとろけあう快楽を得た。その事実は、別個の人間に分かたれてからも、そのひとを支える力となり、なによりも輝く希望となる。「私はひとりぼっちではなかった」という記憶があるかぎり、まただれかと語りあおう、つながりあおうとする意思は続く。
二人は運命の恋人同士ではなかったかもしれないけれど、運命の恋をしたのはたしかだ。この恋がそれぞれの人生に、「私たちはだれかとつながりあえる。好きなものを『好き』と言っていいし、その思いを共有してくれるひとは、地球上のどこかにきっと存在するのだ」という決定的な希望をもたらしたのだから。
三浦しをんの作品、「きみはポラリス」しか読んだことなかったけど他の作品も読んでみようかななんて思える最高のレビューでした。わたしが言葉にできなかった思いをこんなにあたたかい言葉にしてくれてありがとうございます。わたしも「私はひとりぼっちではなかった」っていう大事な記憶をちゃんと抱えて前を向いて行くことにする。
ほんとは昨日のうちに書き上げるつもりだったけどお腹が痛くて寝ちゃったので今日は4/8だけど前日の日にちのまま投稿します。気持ちは昨日のままなので。