会えなくなった人の話
わたしは人を愛することと憎むことにおいてとてもとても執念深いタチで、そのせいで人間関係を拗らせている、と言う話です。
人間関係において、わたしは自分で辟易するくらいに執念深い。好きな人のことであればどんなことでも知りたがるし、どうにかして同じぐらい好きになってもらいたいと考えてしまうし、どんなことをされても「好きだから」で見えなくなってしまう。許すとかじゃなくて見えなくなる。嫌なことをされたら嫌だな、と思ったり悲しいなとも思うし時には泣いたりもするけれど、それでも相手のことが好きだし、嫌な思いも悲しい思いもきっとわたしも知らぬ間にさせているだろうと思うから全てにおいて「お互い様」と思って最終的にはやり過ごす。これはなんだかんだ相手のことを好きで手放したくないという欲求が勝っているからそのまま関係を続けるのだと思う。そして、わたしは好きになった相手に対してはものすごくあなたのことを好きですよ、大切に思っていますよ、ということをアピールしたくなるタチでもある。代表的なものがプレゼント。相手との会話の中で相手が欲しがっていた物、探していた物、好きそうな物、好きだと言っていた何かの関連商品、食べ物、見つけると何でもプレゼントしたくなってしまって誕生日でもクリスマスでもなんでもないのにすぐにプレゼントをしてしまう。これは相手の喜ぶ顔が見たいという純粋な気持ちと、相手に自分がプレゼントしたものを使ってもらいたい、食べてもらいたいという歪んだ気持ちからくる。さらに嫌な言い方をすると、自分に自信がないから物で釣って自分のことを同じくらい好きになってほしい、という気持ちだってある。何かをプレゼントするぐらいでしか相手の気持ちを留めておく方法が見当たらないのだ。
ただ、二年前くらいから急に、そういうことで自ら築き上げた人間関係が自分自身をものすごく苦しめていることに気が付いた。その気付きはゆっくりじわじわとしたものだったけれど、それが確信になってから自分の気持ちが変化していくのは一瞬だった。自分から献身的になることで相手と自分とを結び付けていた癖に、その歪で異様な関係に満足していた癖に、急にその関係に息苦しさを覚えた。わかりあいたい、大切にしたいと思っていた相手に対して自分の意見をはっきりと主張することができなくなっていた。本当は良くないのに「良いよ」と言ってしまうことから始まり、自分の都合が悪くても相手の望む時間や場所に無理をしてでも「行かないといけない」と思って予定を無理やり変えて向かったり、常にわたしなんかのためにごめんね、という気持ちで接していたことだったりがあんまりにも当たり前になっていたけど、おかしいなということに気が付いてしまった。でも、だからといって、その人たちとの関係を断ちたいとは思わなかった。だって好きだから離れていってほしくなくてそういう歪んだ関係にしてしまったのはわたしだったから、自業自得だと思った。それでも、去年わかりあいたいと思っていた友人に何気なく「わたし○○のこと、結構許してるよ」というようなことを会話の中で本当に何気なく言われた。その子はわりと無意識に「許す/許さない」の話をする子で、今までだって何度か言われたことのある話だった。男にされてたら絶対許してないけど女の子だったら許してあげる、仲が良い子だから多めに見てあげる、というようなことをよく言っていて、その時もわたしの遅刻か何かに対しての話だったと思う。彼女は遅刻されるのが嫌いで、よく誰がどれだけ遅刻したという話をして怒っていたのも記憶している。だからそもそも遅刻したわたしに非があったのは確かで、「ごめんね、許してくれてありがとう」というような返事をした。そして、彼女がわたしと遊んだ後に街コンで会った男とご飯に行くというので指定された駅まで車で送っていた。指定された駅に向かっている途中で、「今から電車に乗ると早く着きすぎてしまうから、一度自宅に帰りたいのでやっぱり自宅の最寄駅に送ってほしい」と言われた。わたしは「わかった」と言いながらも、「ああ、せっかくここまで来たのに遠回りだなあ」というようなことを考えていた。でもまあ、彼女がそういうなら送っていこうか、それぐらいだった。彼女の最寄駅について、彼女と別れた後、そこから自宅へと向かう車の中で、わたしの頭の中は先程彼女が言った「わたしは結構許してるよ」という言葉が頭から離れなくなった。許してる?許されている?許すってなに?わたしは彼女のことを「許している」わけではないのに?彼女の我儘に、急なお願いに、わたしが応えることはわたしにとって「許す」ことではなくてただ「応える」ということなのに彼女はわたしの挙動を「許している」んだなあ、と思った時に急に冷めた。今までの思い出も気持ちも全てが急激に冷めた。わたしがまあお互い様だし、と流していた彼女に対してのちょっとした不信感やされて嫌だったこと、言われて悲しかったことがさっと走馬灯のように思い出された後に、思い出のあの時もあの言葉も、彼女はわたしに応えてくれていたのではなくてわたしの挙動を許していたんだ、お互い様なんかじゃなかったんだ、と思ったらなんてこの関係は歪で嘘くさくてわかりあうなんて言葉からなんて程遠いんだろうと思った。彼女はわたしを許す立場であってわたしと同じ舞台にはいない。一段下から彼女を見上げているだけなのに同じ舞台に立っていると喜んでいたわたしはなんて滑稽なんだろうと思ってしまった。わたしの希望を聞かずに彼女の言うままに指定された集合時間や集合場所に口答えをしなかったのはもちろんわたしだった。そして、待ち合わせ時間の朝7時に間に合わなくて何度も気分を害してしまったのもわたしだった、わたしが悪かった。それでも、呼び出された時間に行って、この後には別の人とカラオケに行くから3時間後には帰ると言われた時のあの虚しさや、帰り道に言われるがまま行きたい場所までの送迎をしたこと、いろんなことを思い出したし、その全部全部がわたしの心をぐっと重くさせた。彼女とわたしの関係をこうさせたのは全部わたしが積み重ねてきたもののせいだと思った。わたしが相手とずっと繋がっていたくて、相手に好かれる自分になりたくてしたわたしができた精一杯のことたちは回り回って結局わたしの首を絞めた。居た堪れなくなって、「許されている」ことに耐えられなくなって、わたしは彼女から逃げた。きっともう自分から会いに行くことはないと思う。どう接することが「普通」で「自然」なのかわからないから。彼女がわたしにどうしてほしいのか、どうしたら「許して」くれるのかを考えてしまってうまく笑える自信がないから。
今は本当に仲良くなりたくてずっとずっと親しくしていたい人にも「自分のできる精一杯」をやらないようにやらないようにと気を付けている。自然体、がよくわからなくて迷走もしている。でも学生時代からの友人に先日「だいぶ肩の力が抜けてきていい感じなんじゃない?」「学生の時はなんか頑張りすぎてたもんね」と笑顔を向けられた時に心の底からほっとした。わたし、全然精一杯じゃないし、頑張れてないし、気も遣えてないし、誠実になれてない気がしたけどこれでいいの?こんな適当な状態のわたしでも一緒にいて楽しいってまた会いたいって言ってくれるの?と涙が出そうだった。精一杯のわたしじゃないわたしでも受け入れてくれて会いたいと言ってくれる人たちを大切にすることが今のわたしにできることです。