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ゆるしてもらえているということ

今日、昨年末にすこし揉めた友人と久しぶりに会った。第一声は「あけましておめでとう」とか「おひさしぶり」と声をかけるべきかどうかでものすごく悩んで悶々としていた癖に、会った瞬間に出てきた言葉は「おつかれ〜」という気の抜けた挨拶だった。

揉めた原因は毎年一緒に行っているライブイベントが新型コロナの影響で4月に延期したところから始まった。例年であれば、東京と大阪の二ヶ所で行われるそのイベントに両日とも参加していたが、あまりにも終息する気配を見せない状態を鑑みて、わたしは東京公演の参加を見送りたい旨を悩みに悩んで告げた。大阪公演は車で行けるが東京公演はどうしても公共交通機関を使わないと行くことが難しい為、正直まだ東京駅を歩くのは嫌だった。自分が知らず知らずのうちに持ち帰って職場のクリニックで蔓延させてしまった日には死んで詫びたいと泣く羽目になるのは今からでも容易に想像がついた。ただ、その旨を伝えるのが遅かった。チケットの申し込み締切日を一週間前に控えたその晩に連絡したものだから、彼女が「ハア?今更?」と思うのは無理もなかった。「心配症なあなたのことだからきっとこのことについてものすごく考えたのはわかるけど今更すぎる。」から始まってわたしの性格を考慮した上で今回の判断についての指摘が書かれた返事が送られてきた時、わたしは頭を抱えた。不愉快な気持ちにさせてしまった。自分の浅慮のせいで。もう二度と会ってはくれないかもしれない。鉛が心の中心にものすごい勢いをつけて落ちてきたままわたしも一緒に沈んでいった。

そんな中、3ヶ月ぶりに会った彼女はさらっとしていた。なんてことないかのように今まで通りに振る舞い、笑い、なんてことないような話をたくさんして、今年に入ってから買い替えた新車でまたドライブでも行こうよとわたしを誘った。

なんてさっぱりした人だろう、と思った。あの時は確かにわたしを軽蔑し嫌っただろうに切り替えてわたしとのこれからの話をしてくれるんだ。すごい、と思った。本当に、純粋に。わたしはそんなふうに切り替えられない。普通を装いながらふつふつとあの時の嫌な気持ちを抱えたまま話すだろうしなんなら会うのもやめてしまうのに。わたしとの縁をまだ続けようとしてくれるんだ、とびっくりもした。こうやってわたし、周りの人にゆるされて生きているんだ。わたしもそうやって周りの人と関われるようになりたい、と思った。

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