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20歳で身体障害者になった話
自己紹介
はじめまして。私立文系大学に通っている大学4年、来年からIT企業に入社予定のランボ(ニックネーム)と申します。大学生活残すところあとわずか、何か形に残るものを作ろうと思い、noteを始めました。
タイトルから不穏な空気が漂っていますが、私は、20歳で難病を患ったことをきっかけに、身体障害者になりました。障害を負うまでは、プロサッカー選手を目標に、日々サッカーの練習に励んでいました。自分のアイデンティティであったサッカーができなくなったことで、「自分には一体何の価値があるのか」「これからどうすればいいのか」と置かれている立場に絶望しました。生まれてから初めて「死」も意識しました。
しかし、障害者だからと言って「絶望することなんて何にもなかった」これが今の私の本音です。
この状態に至るまでは様々な葛藤もあり、言葉にすることが難しいですが、私が絶望の淵から這い上がった過程を文字にすることで、落ち込んでいる読者の方や、辛い時期を過ごしている読者の方の救いになればいいなと思います。
さらには、身体障害者として就職活動をおこない、第一志望の上場IT企業に内定できた経験も、これから就職活動を控える学生さんのお役に立てれば幸いです。
困難な状況でも立ち上がる勇気
障害を負う以前の私は、ほとんどの時間を身体を動かす時間に充て、客観的に見ても、健康な身体を維持していました。そんな健康体でも、難病には勝てませんでした。規則正しい生活をしていても患ってしまう原因不明の免疫系の難病です。難病が重症化して障害者になると、満足に運動をすることもできなくなりました。180°一変した生き方に、障害を負った当初は現実を受け入れられない日々が続きました。健康体で運動ができていた過去に囚われ、今を生きることから逃げていたのです。あたかも「今の人生は生きる意味がない」とも考える日もありました。
しかし、その状況を変えたのは、「自分自身」でした。「今を蔑ろにして生き続けることこそ、意味がないのではないか」ということに気づき、「過去の自分より成長した自分を見てみたい」という想いが沸々と湧いてきました。
今振り返ると、障害を受け入れ始めた第一歩だと感じます。
受け入れる力とあきらめる力
そして、障害と付き合いながら生きることに慣れてきた段階で、やはり過去の自分を無い物ねだりする自分が時々顔を出してきます。そこで、無い物ねだりをする自分に対して、否定することなく受け入れてあげることが大切だと学びました。「過去の自分は確かに羨ましい。けど今の自分も生き方を選べる。ならば羨ましい生き方をすればいい。過去を否定する必要もないし、今をただ受け入れるだけでいい。」こんな単純なことだけど、この受容力を身につけるのには時間がかかりました。
そして、過去の自分ができていたことを今の自分ができないことを受け入れると、良い意味であきらめる力がつきます。このあきらめるとは、「物事を明らかにする」という意味で、できることできないことを正しく認識すれば、できることに集中することができます。
過去を振り返り、未来を見据え、今を生きる
過去は変えられない、未来も分からない、そんな状況で今を生きるのは時々不安になります。「今していることは正しいのか?」「この選択はしたほうがいいのか?」など頭の独り言が自分の思考を邪魔します。
そうであるならば、過去から得た教訓を活かし、未来の目標を定め、その目標に向かうための道を今真剣に歩むことが重要なのではないか。と感じました。過去も未来も見ないで、「ただ今を漠然と生きること」は怖いし、人間の本能に反している。だから、「過去を受け入れ、過去の自分より成長しようと、未来を見据える。そして、今を一生懸命に生きる」これが私の伝えたいことです。
まとめ
ここまで読んでいただきありがとうございます。
初回なので、抽象的な内容に偏ってしまいましたが、少しでも面白い文章だと思っていただければ幸いです。読者の皆さんの反応次第で、これからも継続して書こうと思います。障害について、就職活動について、諸々ご質問ございましたらお気軽にご連絡ください。