国立大学授業料引上げで公費助成を減らす 当然の論理です。
慶応大学の伊藤公平塾長(学長)が「国立大学の授業料を現在の3倍150万円に引き上げる」ことを提案して波紋を呼んでいる。
多数の意見は経済的余裕がある家庭の子弟しか通えなくなると批判的。だがボクは伊藤説に賛同だ。影響力ある人がよく言ったと思うと同時に、ものごとの本質をわきまえれば当然であると同時に、まだ生ぬるいと考える。
国立大学の授業料はかつては安かった。ボクの学生時代は年間1万2千円。月額千円。1日分の食費代ほどだった。国立大学運営費は99%国家予算であったといって差し支えないだろう。
しかし世の中の趨勢は変わってきている。そもそも国立大学は、今では独立法人化されており、国家が経費を負担する根拠が希薄になっている。完全な独立採算であるべきなのか。
伊藤先生によれば、国立大学は学生一人当たり283万円の収入があり、そのうち54万円が学生が負担する授業料。差額の229万円が政府補助(税金)ということだ。昔と違い、希望者はほぼ全員が大学進学が可能になっている。そうした状況において「学生一人当たり1千万円(年間229万円の4年間分)も支給しなければならないのか」。これが問題設定である。
伊藤先生は本来は年間300万円であるところ、せめて半部を当人に授業料として負担してほしいと言う。世間をあまり刺激してはどうかとの遠慮だろうが、議論としては大学教育の受益者は学生なのだから、その対価の総額(300万円)を授業料で負担すべきであると主張すべきであろう。
そうすると必ず出てくるのが「貧しい家庭の子どもが大学に通えない」といった感情論だ。
しかしそれは義務教育での議論である。小中学校で授業料徴収などは問題外。貧しい家庭の子どもから義務教育の機会、権利を奪ってはならない。だが、ここで論じているのは大学である。大学で行われるのは専門分野の教育。国民全員が受講する義務もなければ必要もない。学びたい者が門を叩くのである。ならばそれに必要な対価を払う。それで不都合ないはずだ。
でも300万円は高すぎる。そういう声は当然だ。だがそれは国家からの補助金の根拠にはならない。国立大学の高コスト体質の改善がなされていないことが問題なのだ。高い教育レベルを維持するには資金が必要という理屈は分かる。ならばその資金を確保する工夫をするのが当然だろう。
一つ方法をj考えよう。今ではどの国立大学の長い伝統を有している。成功した卒業生も少なくないだろう。簡単な計算だが、卒業生(同窓会員)の数を在学生の数の20倍とする。卒業生が平均年10万円の寄付をすれば、在学生の授業料を300万円ではなく、100万円に下げられる。そうすると伊藤先生の主張する150万を大きく抑えることができるのだ。そして国庫補助を全面廃止でき、減税につながるのである。気持ちよく寄付するか、強引に徴税されるか。詰まるところはこの選択なのだ。
生きていくうえで必要になる経費。そのそれぞれについて、当人が負担すべきものか、それとも公費で賄うべきものなのか。その整理は絶えず厳格に行われていなければならない。多数の声で「国が負担せよ」と押し通していれば、ほんとうに必要な分野に回せる公費がなくなってしまう。その典型の一つが国防費であろう。「国費が枯渇しているのでしばらく領海侵犯を遠慮してくれないか」なんて議論は通用しないのだ。これは痛みが激しい河川の堤防国道橋脚の再建費でも同様である。これらの公費負担は削れない。
国家財政に余剰があれば本来自己負担であるべき分野に思し召し的補助金交付が許されるであろう(本来は減税で国民に還元すべきなのだが)。だが財政が不尿意になってくれば、そんな余裕はない。本来に戻って不要不急の財政負担を廃止していくほかあるまい。政府財政が放漫体質を改めず、民力を顧みない高い税負担を課したままで、民間経済に活気を求めても得られるものはないのである。