中山道『垂井宿』の今 普通の民家に屋号札(?)が掛けられていました。
江戸と京都を結んだ五街道の一つ中山道の美濃16宿、その西から三番目の「垂井宿」を訪ねました。慶長5年(1600年)の関ケ原合戦では多くの軍が陣を引いた場所でもあり、全国の鉱山・金属業の総本宮として古くから信仰を集めている南宮大社がある地でもあります。
商店も点在する街並み
東海道本線「垂井駅」の北西に垂井宿の街並みが広がっています。商店街と呼べるほどではないのですが、商店や理髪店などが点在する中に宿場町らしい古民家も点在する街並みです。美濃路と中山道が交差する地点で、うだつの上がる古民家がポツポツと点在していますから、宿場町として栄えていたことがうかがえます。
栄枯盛衰
見るからに立派で、今なお手入れを続けている古民家もあります。「藏のある古民家」の藏は旧街道の辻沿いではなく、辻に交差する通り沿いに建っていました。藏の窓も開けられていて、今なお大切にされていることがうかがえました。国登録有形文化財指定されている古民家がある一方で崩れかけたような古民家もありました。崩れかけた古民家には越屋根や虫籠窓もあり、漆喰壁も一部残っています。昔日にはさぞ立派なお宅だったのでしょう。
寺社
辻沿いには浄土真宗の本龍寺があり、高札場(幕府や領主が決めた法度や掟書などを木札に書き、人目をひくように高く掲げておく場所)が復元されていました。本龍寺の土壁には立派な彫刻瓦が施されていました。垂井宿の南に南宮大社があるのですが、そこへ至る道には重要文化財指定された立派な石鳥居が建っています。
新旧の同居
古くからある宿場町だからと言って、そこに住んでいる方々が昔のままの住居に住み続けることはできません。新旧合体した建物などが多くありました。古い木製の格子と新しい金属製の格子を同居させたお宅は玄関扉も古を想わせる金属製でした。少し古くなってはいましたが、古民家の一部が鉄筋(鉄骨?)三階建てに改築されていました。土壁をトタンやガルバリウム鋼板で覆った古民家もかなりありました。
家の古さとは関係なく、普通のお宅に「問屋場 越後屋」「瀬戸物買 大坂屋」のような札が掲げられていました。おそらく昔の商売の屋号だろうと思いますので、屋号札とでも呼べば良いのでしょうか。掲げ方は色々でしたが、昔日の繁栄ぶりをうかがわせるように多様な商売が並んでいます。今なお伝統を語り継ぎ、残しながら現代に生きている宿場町を見ることができました。