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『学習する社会』#20 3.学ぶこと 3.1 決めること (3)単純な思考機械

3.1 決めること

意思決定論の最大化原理やサイモン(1957)の提唱した満足化原理、内藤(2003)が提唱した合理的選択過程合理化選択過程、等、多様な決定原理や決定過程を前提とすれば我々の行為とその変化の多くを説明できる。しかしながら、上位目的構造の変化にはさらに選択正当化過程も必要となる。上位目的構造の変化までを視野に入れようとすると、一回だけの選択を対象にして意思決定の過程を考えることはもはや適切ではない。繰り返し選択を行う思考の過程を考える必要がある。

(3)単純な思考機械

環境の複雑さと行為の複雑さ

サイモン(1969)は、次のようなありの一連の行為を例えにして、自然現象を組織化させて人工性を与える人間の思考の単純さについて議論を展開している。

蟻が風波の跡をとどめた海岸を、苦労しながら歩いているのを見かけることがある。蟻は前進したり、小さな砂丘を登りやすいように右折したり、小石を迂回したり、…縫うように進んだり停止したりしながら、自分の巣に帰るのである。…いま紙の上にその道筋を描いてみよう。そうすると不規則で角ばった諸部分からなる一連の図形ができあがる。といってもそれは、蟻の動きの背後に方向感覚が働いているから、単なる彷徨の跡とはいえない図形である。

サイモン(1969)、訳書p.61。

蟻の歩いた路を幾何学きかがく図形として見ると、不規則で複雑である。しかし、その複雑さは蟻が歩いた海岸の複雑さを示しているのであって、その蟻の複雑さを示すものではない。一つの行為主体として眺めた場合、蟻はきわめて単純であり、その行為の経時的な複雑さは主にその環境の複雑さを反映している。サイモンは、情報の詰まった記憶を有機体の一部として見なすのではなく、有機体がそれに向かって適応していく環境の一部と見なそうとする。人間は適当な刺激によって呼び出すことができる莫大な情報を記憶の中に蓄積することができるので、人間の行為の結果が蟻よりはるかに複雑であっても、思考そのものの単純さを蟻と同様に考えることも可能となる。

思考と記憶の分離

記憶が利用できるのであれば、タクシーの運転手は目的地までの経路を選ぶためにきわめて複雑な思考はとらなくてすむ。たとえ記憶が増大しても、それが複雑さの増大を導くとはかぎらない。熟達者の問題解決を観察すると、未熟者が長時間探索活動を行ったあとようやく見つけだすような解答を、直観的に即座に導きだすことがある。熟達者は知識だけでなく、解答を導く技能をも備えている。サイモンはこうした技能も記憶の側に入れ込み、環境と記憶からの情報を使って思考し・行為を導くという考え方で思考を単純化して把握しようとした。なお、複雑性の縮減についてのサイモンの主張については、内藤勲(2011)が詳しい。

単純な思考機械における環境との相互作用は、図表1のように示される。我々は身体の受動的感覚を通じて環境=外的世界の状況を知り、その時の行為に必要な計画イメージに応じて身体に対して行為指令が出され、身体を使って環境に対する働きかけが実行される。その結果生ずる環境からの刺激と働きかけの能動的な身体感覚から、その時の環境の状況と自身の身体状況を知る。行為を進行させることで時間の流れ共にその循環が繰り返されていく。

図表1 単純な思考機械が前提する環境対応

複雑性に対応する記憶

この単純な思考機械は、サイモンが提示した蟻の思考に相当する。蟻であれば、計画イメージは帰巣きそうにせよ、えさの探索にせよ本能的に与えられていると考えておけばよい。しかし人間の思考を考えるのであれば、たとえ単純な思考機械の仮定を受け入れるとしても、計画イメージの形成過程を射程に収める必要がある。タクシー運転手の例であれば、目的地へ行くための計画イメージの作成や交通状況に応じた計画イメージの修正を射程に収める必要がある。サイモンは、それを可能とするために知識のみならず技能も貯えられた記憶を思考機械から分離する枠組みを想定した。知覚されている世界は身体を操る基礎的な行為とその際に得られる刺激によって時間の経過とともに修正され続け、その行為は計画イメージに基づいて行われ、それも修正されていく。この修正のためには、記憶ないし記録が必須となる。

サイモンが提示した単純な思考機械は、外的世界の複雑性に対応するために、複雑性を処理できる知識や技能という記憶を利用する。図表2で環境との相互作用に欠かせない計画イメージは、計画の過程によって形成され、修正される。イメージ界の内部にあっても、記憶領域は単純な思考機械の環境として扱われる。この単純な思考機械は記憶すると共に、記憶を利用して環境との相互作用を継続する。なお、暗黙知の議論で示したように、日常的に身体は境界化されているので、図表1にある感覚は省いている。

図表2 記憶を用い計画する思考

新たな環境に対応する記憶の修正

計画過程の一部は我々の外部に出すこともできる。例えば、我々はカーナビを使って、経験豊かなタクシー運転手のように効率的な経路を計画できる。新しい道路ができても、その情報がカーナビの記憶領域に入っていれば対応できる。新しい探索方法も経路選択のための重み付けを更新すれば、新しい探索手続きを記憶領域に入れておけば対応できる。単純な思考機械の考え方は、人間の知の理論を人工知能や組織の知の理論に拡張することを容易にしたのである。なお、我々のイメージ界にあった計画過程を外部に出せば、「外部に出された計画の過程」を使う方法を知らなければならないが、ここではその議論は省略している。

しかしながら、単純な思考機械の議論では、記憶領域がどのように変更されるかはほとんど触れられない。カーナビであれば新しいデータを入力して、記憶領域を更新できる。しかし人間の場合、そのような単純な方法はとれない。単純な思考機械の考え方に欠けているのは、環境の複雑性への対応を可能とする行為の複雑性を担っている記憶を変化させる学びの理論である。なお、サイモンが学び(学習)について論考していないということではない。デザイナーとデザインの相互作用(サイモン、1996)や発見的な問題解決過程(サイモン、1977)など、学びについても論考している。

今回の文献リスト(掲出順)

  1. Simon, Herbert A. (1957) Administrative Behavior: A Study of Decision-Making Processes in Administrative Organization, 2d ed., Macmillan. (松田武彦/高柳暁/二村敏子訳 (1965) 『経営行動』ダイヤモンド社)

  2. 内藤勲(2003)「新たな価値が創られる」内藤勲編『価値創造の経営学』中央経済社、pp.1-20。

  3. Simon, Herbert A. (1969) The Sciences of the Artificial., MIT Press. (高宮晋監修、倉井武夫/稲葉元吉/矢矧晴一郎訳 (1999) 『システムの科学』ダイヤモンド社)

  4. 内藤勲(2011)「複雑性の科学」田中正光編『経営学史叢書Ⅶ サイモン』文眞堂、pp.150-179。

  5. Simon, Herbert A. (1996) The Sciences of the Artificial, 3rd ed., MIT PRess. (稲葉元吉/吉原英樹訳(1999)『システムの科学 第三版』パーソナルメディア)

  6. Simon, Herbert A. (1977) The New Science of Management Decision, revised edition, Prentice- Hall. (稲葉元吉/倉井武夫訳 (1979) 『意思決定の科学』産業能率大学出版部)

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