『学習する社会』#18 3.学ぶこと 3.1 決めること (1)あれかこれか
2011年1月31日、前日からの記録的な大雪でJR北陸線はほぼ全列車が運休していた。翌、2月1日に金沢で地方入試を実施しなければいけなかったため、1月31日に北陸線の特急しらさぎで金沢に行く予定であった。31日早朝、同行する事務責任者からの連絡で北陸線の不通を知った私は、交通情報・天気予報などの情報を集めて大学の統括責任者に連絡し、善後策を協議した。高山から金沢の交通手段は不確定であったが、とりあえず高山に向かうことを決めざるを得なかった。結果的に、高山本線の特急ひだで高山まで行き、高山から高速バスで金沢へ向かった。
3.1 決めること
大雪の際に私が金沢へ向かった時、名古屋から金沢までのすべての交通手段を考慮したわけではない。また、私個人の決定問題として考えると、金沢へ行く方法を誰か他の人に決めてもらうということも代替的選択肢にあったはずであるが、その時にはそれは代替的選択肢には入っていなかった。同じ時に、富山に向かった班は大学の責任者に決定を任せるという決定をしていた。我々の班にしても、高山から先の手段については高速バスという選択肢は持っていたが、高山に着いた時にそのバスが運行している保証はなかった。高山から金沢までの交通手段は高山に着いてから考えることにしていた。結果がはっきりしなくとも、何かを決定して、行為しなければならないことも少なくない。日常的には、結果について特に意識せずに行為することの方が多いかもしれない。#17までは、「すること」から知ることを考えてきたが、今回からは「する」ために「決めること」から論考を進めて、「学ぶこと」の議論を展開したい。
(1)あれかこれか
最大化原理と満足化原理
意思決定理論においては、①すべての代替的選択肢の知識、②各選択肢の引き起こすすべての結果の知識、③すべての選択肢から一つを選択できる価値体系、を前提として、最大化原理によって選択されると仮定されている。冒頭の話題では入試という重大事であったので、意思決定理論で議論される状況に近い決定がなされていたはずである。それでもすべての選択肢は考慮されておらず、選択肢の結果について分かっていたわけではなかった。同じ日に別の大学は、名古屋から東京に向かい、羽田から小松に空路で向かい、金沢へ入ったという。我々は空路という選択肢を考慮すらしていなかったのである。日常での選択であれば、なおさら意思決定理論のような合理的な決定は行われることはないだろう。
サイモン(1957)は人間が制限された合理性しか持たないという前提から、最大化原理に対して満足化原理を提唱した。満足化原理では、人は行為に先立ってすべての知識を動員してすべての代替案を比較考量しない。過去の行為に満足すればその行為を維持し、不満足だと思えば満足できる行為を探索する。満足な行為の探索がなされ、その満足な行為が継続され、状況が変わったり満足基準が変わったときには、再度、満足な行為が探索されるという原理である。確かに、満足化原理はより日常的な決定を理論化している。とは言え、最大化にせよ満足化にせよ、決めるための基準としての価値体系が前提されていることに変わりはない。
価値観の形成
確かに、我々が意識的に何か決めようとする際には、各自の価値体系ないし価値観に照らして決めているように思われる。しかし、我々は自分の価値観がどのようなものであるかを日常的には意識していないし、それがどのようにできたのかはよく分からない。内藤(2003)では、次のようなサッカーのテレビ観戦や鮮魚の購入などを例として価値観の形成を論じている。
価値の大小
内藤が指摘しているように、「あれかかこれか」という比較が価値を考える出発点になるだろう。辞書的に価値とは、①ある目的達成のために【合目的な】、②十分な働きがあり【機能的な】、③手に入れにくい【希少な】、モノやコトに対して与えられる評価であり、イメージ界に在る意味世界上の序列と考えることができる。日常的な「あれかこれか」という選択においては、選択されたものの価値が選択されなかったものの価値より高いと我々は考えている。価値についての議論は多様であるが、尺度的な側面に光を当てれば、価値観を持ち、それに照らして価値評価することで「あれかこれか」という選択状況が大小比較に単純化される。この単純化が価値評価や価値観の機能でもある。
我々は多くの場合、目的あるいは意図を持って行為する。明確さに相違はあっても、ある程度は結果を予期ないし想定しながら、意図を持って行為する。前回までに検討したように、行為の意図性を前提とすることは不自然ではない。価値を選択対象の比較尺度ととらえると、価値は目的達成の度合いを表す尺度と考えることができる。ハマチはヒラメよりも内藤の母を喜ばせるという目的を達成する度合が高い。だから、内藤の価値観では、ハマチの価値が高くなり、選択される。
多様な目的の複雑な関係
しかしながら、我々が持っている目的は一つではない。同時に多数の目的を抱えている。それが常態である。短期的な目的が長期的な目的の手段になる目的-手段連鎖を考えて、多数の目的を手段と捉えたとしても、そもそも究極の目的を想定することが困難である。「生きるこ」とも究極の目的にはならない。生物種としての人は自身の子孫のために死を選択することもある。多数の目的を抱えているときに、それらが整合性を持つ保証はないのでる。例えば、ダイエットと健康という目的は時に矛盾する目的となる。
整合性の保証のない多様な目的を持っていても、それでも、我々は日常的に価値判断している。我々の現実の意思決定が理論で示されるよりは緻密さに欠けているからではあろうが、同時に、我々が多様な目的を構造化した価値観を持っているからでもある。もちろん、価値観の構造は曖昧だろうし、不安定だろう。だからこそ、我々はしばしば選択において迷うのである。我々が価値観を持っていることを受け入れれば、日常的な決定を価値計算として見ることも可能となる。
今回の文献リスト(掲出順)
Simon, Herbert A. (1957) Administrative Behavior: A Study of Decision-Making Processes in Administrative Organization, 2d ed., Macmillan. (松田武彦/高柳暁/二村敏子訳 (1965) 『経営行動』ダイヤモンド社)
内藤勲(2003)「新たな価値が創られる」内藤勲編『価値創造の経営学』中央経済社、pp.1-20。