『学習する社会』#8 2.知ること 2.1 知ることの原点 2.1(2)暗黙知の包括性
2.知ること
2.1 知ることの原点
(2)暗黙知の包括性
『学習する社会』#7において、ポラニーの暗黙知の議論における中核的な主張が「包括性の認知」と「近接項から遠隔項へという知ることの拡大」であることを指摘した。今回は暗黙知の包括性について掘り下げてみよう。
存在の包括性には共時的包括性と経時的包括性がある。共時的包括性は、ある時点における知る対象を諸部分それぞれと諸部分の関係から構成されている全体を同時に知るという包括性である。経時的包括性は、ある現象が別の現象を引き起こすという因果関係を一つの全体的出来事として知るという包括性である。
共時的包括性の多様性
友人が眼鏡を新調するために眼鏡店に一緒に行った眼鏡店での様子を想定してみよう。よほど奇天烈な眼鏡でない限りは、「眼鏡を試着している顔」は日常的に眼鏡を掛けている友人の顔として認知できよう。その際、「試着している眼鏡」は「友人の顔」という全体の部分(諸細目の一つ)となっている。「試着している眼鏡」は口や鼻などと同様の諸細目の一つとなり、認知した友人の顔を構成している。
同時に、試着している眼鏡はその眼鏡店の諸細目の一つでもある。友人が購入する前である限り、試着している眼鏡は店頭在庫の一つである。照明や什器、視力などの検査装置、商品説明ポスターなどとともに展示してある眼鏡(フレーム)は眼鏡店を構成している。日常的に買い物をしている際、試着する衣服や眼鏡をことさら在庫の一部とは考えないだろう。しかし、試着している眼鏡の代金を払わずに試着したまま店を出れば、在庫の一部を持ち出したものと見なされ、窃盗として処罰される。
ある時点に知ることができる諸細目としての対象は多様に存在しており、そこから知ることができる全体も多様であり、したがって、共時的包括性も多様である。
経時的包括性の多様性
共時的包括性と同じように、ある期間に知ることができる経時的包括性も多様に存在する。時間の経過と共に生じる出来事の関係は、最初の時間経過では関係があるとは分からない。時間経過の後に、過去において時間的に分断して生じた複数の出来事に対して、原因や結果という関係を当てはめることによって、原因や結果と呼ばれる諸部分としての出来事の関係から構成される全体としての因果関係という経時的包括性を知ることができる。
「しゃっくりをしている友人を驚かしたところ、友人は持っていたグラスを落として、そのグラスが割れて、しゃっくりが止まった。」という一連の出来事を考えてみよう。時間の経過と共に生起する事象の間に様々な因果関係を見いだすことができる。
「驚かす」と「しゃっくりが止まる」という一連の事象に注目して、[驚かす⇒しゃっくりが止まる]という因果関係を見いだすことができる。
「グラスを落とす」と「しゃっくりが止まる」という一連の事象に注目して、[グラスを落とす⇒しゃっくりが止まる]という因果関係を見いだすことができる。
「グラスが割れる」と「しゃっくりが止まる」という一連の事象に注目して、[グラスが割れる⇒しゃっくりが止まる]という因果関係を見いだすことができる。
あるいは、事例にかかれていないような事象に注目して、[驚かす⇒むせる]という因果関係も見いだせるかもしれない
一連の事象から「1」のように因果関係を知る人は、しゃっくりしている人を見つけるとやたらに驚かすようになるかもしれない。「2」のように知る人は、グラスを持たせて、そのグラスを落とすように勧めるかもしれないし、「3」のように知る人は安物のグラスを持ってきて、そのグラスを割るように勧めるかもしれない。同じ連続的事象からも、暗黙知として認知される事象の組み合わせは多様である。一連の事象から知ることができる経時的包括性もまた多様である。
暗黙知の自律性と他律性
暗黙知として「知っていること」は、それを知っている人が見つけ出した「環境にある諸要素の共時的包括性」であり、あるいはそれを知っている人が見つけ出した「時間順序で生起する出来事の中の経時的包括性」である。しかし、暗黙知の考え方における「知ること」はそのような共時的包括性あるいは経時的包括性を「見つける」ことではない。ポラニーの議論では、共時的包括性あるいは経時的包括性があるから見つけるのではなく、見つけ出した共時的包括性あるいは経時的包括性を「そのようなものとして見つけようとして見つけた」のである。
ポラニーが暗黙知の議論において提示した包括性は、知る人と関わりなくあるものではなく、知る人が知ろうとする能動性の結果として見つけるものである。暗黙知という知り方は、知ろうとする能動的な志向によって、環境にある諸要素を共時的包括性へと編集することであり、時間順序で生起する出来事の中から経時的包括性を編集することである。暗黙知は何かを知ろうとする人それぞれの自律性で構成されているとも言える。
もちろん、包括的に知ることは、知ろうとする人の自由な解釈という意味ではない。暗黙知における包括性は、知るという志向の中で破壊され、再統合されて変化していく。その再統合は自由ではなく、環境に制約されている。暗黙知は何かを知ろうとする人に対する他律性を伴って構成されているとも言える。次回はこの他律性について掘り下げてみたい。
今回の文献リスト(掲出順)
Polanyi, Michael (1966) The Tacid Dimension, Routledge & Kegan Paul. (佐藤敬三訳 (1980) 『暗黙知の次元:言語から非言語へ』紀伊國屋書店)