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夏…日航機墜落事故の刑事責任は誰も取らなかった

(写真の飛行機は事故機ではありません)

1984年夏。
日航機123便に乗っていた乗客のすべての姓名が新聞に掲載された。
524人の乗客・乗務員の中で助かったのは4人。偶然4人とも女性だったので、女性の生命力は強いと、当時、巷で囁かれた。

80年代は、まだ女性は社会的に弱かった時代だが、遺族会の事務局となり、中心となって行動したのも女性だ。
事故で9歳の息子を亡くした母親だった。

彼女は遺族会の代表として、日航、ボーイング社、運輸省という大きな組織の責任追及を続けた。

遺族と心をともにした群馬県警も、起訴するための証拠、証言を得るため何度も渡米したが、ボーイング社が事情徴収を拒み、結果は3つの組織ともに不起訴で公訴時効が成立する。

520人の命を奪っておきながら、その事故の刑事責任はうやむや。
そんなひどいことって、あるだろうか…

だが、それでも、めげずに遺族会は社会に向かって発信を続け、
その結果だろう、
日航は今もグループ企業の全社員が墜落現場の群馬県、御巣鷹の尾根へ登山することを研修として行なっているという。

この事故には、犠牲者、遺族、報道、救助、航空学、企業責任など多岐にわたる視点があって、胸のえぐられるエピソードばかりだ。

その中で、私が一番痛みを覚えるのは、先述の事務局の中心となった女性の、幼かった息子さんのことである。

大阪へ初めての一人旅をした9歳の男の子。
飛行機が揺れて、非常体制となったとき、どれほど心細かっただろうか。
きっと「お母さん、お母さん」と何度も心の中で叫んだだろう。

ただ、ひとつ救いは、隣席がやはり一人旅の若い女性で、子どもが大好きだったと聞き及んでいることだ。

きっと二人は急降下する機体の中、シートで安全体勢をとりながら、しっかり手を握り合っていたに違いない。

そうであって欲しいと、二人の男の子を育て、娘を病で夭折させた母として心底から願うのである。

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