【書付】第19回「文芸思潮」現代詩賞
つい先日、文芸思潮から封筒が届いた。
5月末、詩の賞に応募したことを思い出す。
そういえばアジア文化社という社名だったな、と思いながら
封筒を開けると、第二次選考を通過いたしました、という知らせだった。
その瞬間は嬉しかったのだが、
同封の定期購読のお願い、批評コメントご希望の方へ(費用5000円)、
インターネット掲載について(1作品2000円)
を見て、まぁ、そういうことなのだな、と感情はすぐに冷めてしまった。
そういえば、応募にも1500円が必要であった。
詩という、ほとんどの人が読みもしないものに対して
雑誌などを運営していくためには、少数のモノズキからお金を集めるほかないのだろう。どうしようもなく、独りよがりに書いた詩を投稿するほかない、私のような人間から、脆く小さな拠り所の対価として。
しかし、この知らせは機会となった。
7月の後半には詩を書くことも少なくなっていて、
この9月の終わりまでの2か月、詩からは離れていた所に、この知らせが届いたのだ。また書いてみようか、と思うのは当然のことだろう。
期待はせずとも、気にはなってしまう。
仕事の昼休み、近くの大型書店へ文芸思潮を見に行った。
中間発表のページを開くと、確かに私のペンネームがある。
こういうのは初めてのことで、やはり少し嬉しい。
しかし思った通り、おそらく応募した人全員が載っているであろう予選通過者の数々。さらにはそのほとんどが三次予選通過者なのだ。もはや落選の方が優しいのでは?と思う少し苦い思い出となった。
gendaisi_19th_tyukan.pdf (asiawave.co.jp)
「文芸」という言葉の意味を考えると、
確かに私の書くものは私の領域を脱していない。
自分のためのものでしかない作品を発表などしたところで、
社会に対して何の意味を持つというのだろうか。
しかしそれでも、
詩を書いて、
中々いいな、と思って、
それを公の場に投稿して、
知らない誰かに見てほしい、
と思う感情を、この虚栄を、今は蔑ろにしたくない。
私はまだ詩を発表するという段階に達していない。
自らの為に書く詩を、他の誰が読むというのか。
誰かの為に書いてある詩でさえ、読まれていないという現実があるのに。
それでもやはり、
自分の為に書いた詩を、
この誰も見ていないが、見る機会は有り得る、noteにて、
自らの詩を投稿することは、
社会にとって意味はなくとも、
少なくとも私にとっては大きな意味があるように思う。
このオナニーに限りなく近い詩の投稿を続け、
いずれは「文芸」といえるような、
自分の為だけではない詩を書けるようになったとしたら、
それは私の成長といえるのかもしれない。
そんな私を夢見て、
詩を書いて、投稿するということを、
もう少し続けられたら、
それはおそらく、幸せなことなのだろう。
【賞に応募した三つの詩】