この世、あの世、世界一の幸せ
数は実在するか、というQuoraの質問に答えてみた。
似たような質問には、幾度も回答しているが。
数は、人が作りだした言葉・概念・記号の一つ、人の社会生活に役立つ道具。すべての道具は使い道が決まっている。使い方が間違っていないなら、良い効能があるでしょう。
さて、実在とは何か。
仮に、この宇宙に大昔、優れた知的生命体がつくった文明があったとして、その痕跡が残っていない場合、その文明は実在したのか?
一般的に、人が感知できないものは、ないとも、あるとも言える。あるかも知れない、ないかも知れない。
人が可能なのは、感知するだけです。実在しているか、どうかは、人の能力を超えた概念となるでしょう。
例えば、4次元の事象を考えてみる。色々な仮説が考えらる。しかし、3次元に生きる私たち人にとって、4次元を実感として感知することはできません。
例えば、人の死を取り上げてみる。
通常、人は死の直前に意識を失う。
ものごとを感知し実感できなくなります。
つまり、人は死を体験できないということです。
人にとって、体験できない、感知できない、実感できないことは、ないと同じです。
死は体験できない故に、死ぬ当人にとって、ないと同じ体験になってしまう。
だが、当人以外の他者にとって、死体が残る。
通常、死者と死体は同じ意味を持つ。
死はあると考えるのが普通の解釈となります。
しかし、実際のところ、当人から見て、死があるかどうか、それははっきりしません。
私は体験できない故にないと思います。
例えば、色は実在するのか?難しい質問です。
色を感じるのは人の感性と脳による情報処理の結果です。
自然界に色があるかどうか、はっきりしません。
しかし、人にとって色は明確に感じることができる故、実在していると仮定しても問題は生じない。
例えば、人の意識はあるかどうか。意識があると仮定しても、人の生活に問題は生じない。
多くの人は意識があると疑いもしないでしょう。
話は飛び。
この人の世は、実在しているか、どうか。
私は、人の意識がつくる幻覚、妄想だと思う。
なぜなら、意識というものが、あやしいのです。
人の意識は、胎内からの体験の積み重ねで生じます。
意識が生まれるもとになっているのは、
人類の遺伝子の進化による脳の情報処理系の発達です。
ある行動や感覚が強化されるのは、生存に役立つからです。
生存に有益な感覚や情報だけが脳に記憶され、
生後に積み重ねられた体験や実感の集積が意識となっていきます。
意識はあると仮定するのは、人として当然の結論でしょう。
ただし、意識を実感できるのは、当人だけです。
当人以外の他人から見れば、意識の有無の判断は、とても難しい問題となる。
遷延性意識障害の患者さんに意識があるかどうか、検査でも不可能です。
もし、実感できることだけが、実在すると仮定すると、
魂もこころも精神も、また愛のような概念も、
実感できるかどうか、あやしくなります。
この世は実在しているかどうか、
実感できるなら、あると言っても、問題はないでしょう。
もし、実感したと感じている内容が、
本当のところ妄想やマボロシだったとしても、
当人が実感している限り、実在していると考えて問題ないでしょう。
自然界に色はないが、
人の脳が色を識別できるから、
色があるとしても、問題ないでしょう。
人の頭は、このような思弁にふけるのに最適です。
この世もあの世もないとしても、
今の実感がはっきりと感じられるなら、
生きることには意味があります。
私の人生経験から言うと、まさに、天国・楽園です。
死がないなら、
生きることは、もっと楽になります。
そして、世界一の幸せも、
誰もが感じることができるようになるでしょう。
瞑想していると、
自宅に座っていながら、
海で泳いでいる実感があります。
たとえ妄想としても、
海の冷たさや匂いや波のゆらぎを感じます。
人の脳というのは、これほど優れものです。
瞑想していると、
世界中を旅することも可能かもしれません。
わざわざ歩いたり車に乗る必要はないでしょう。
過去や未来への旅も可能かもしれません。