人ができること
質問「現代を生きる我々が理解するために努力し、物事を正しく見抜かなくてはならないことは何だと思いますか?」
私の回答は下記。
人の思考力、考える力の限界を知ることが、一番大事だと思います。
人は言葉・概念・数などを使って考えますが、
言葉や概念が、どこまで真実に迫れるのかをきちんと見抜かなくてはいけないと思います。言葉は道具です。
非常に便利であるが、道具にすぎません。道具は、使用目的があります。
言葉の使用目的は、人が社会生活する上で、必要な意思を伝えるためです。
その意味では、かなり成功しています。
しかし、真実を追求するという面では限界ある道具です。
例えば、私や自分という概念を取り上げますと、
私や自分という概念は、社会生活には役立ちます。
しかし、私は変化します。さらに、私の内面は多層で重層的で複雑です。
内面の多くは意識されないところにあります。
つまり、人は自分が何であるのか、さえ、よく分からないままに死を迎えます。
私という概念は、一時的・便宜的なもので、真実の実態はないということです。
他の概念も、だいたい同じです。
言葉はある使用目的のためにつくられています。それ以上のものではありません。
例えば、数は道具として有効です。
しかし、数は現実にあるものではありません。
人が作り出した架空の概念です。
確かに、現実のある面を説明するのに役立ちますが、
普遍的真実に迫るというような大それたことはできません。
脳が発達した生きものは意識があります。
記憶もできます。過去の体験を整理して活用できます。
人が他の生きものと違うのは、言葉や概念を使えるということです。
しかし、言葉は便利な道具にすぎません。
言葉や数という道具だけでは、
真実やこの宇宙の絶対的な法則を見つけることはできないと思います。
生命を満喫する、人生を楽しむのが、人が生きるということなら、
それは充足できます。
しかし、宇宙の真実を極めるというには、
私たち人は、あまりに乏しい感受性、感知能力をもった生きものです。
主に5感でしか感知できません。さらに、感情も知性も限られています。
同時に平行的に多くの思考を複層的になすこともできません。
概念は抽象で便宜的です。
りんごと云う概念はあっても、リンゴという特別な実体はありません。
架空のものです。私が架空であるのと同様にです。
全ての言葉は、私や自分のように輪郭不明で曖昧な概念であるか、
あるいは、数のように理想化したこの世にありえない概念です。
そのような言葉で組み立てられた構造物が堅牢であるとは考えられません。
言葉を使うことの限界を考えることが、
物事を正しく見抜くために不可欠なことだと思います。