こころの姿
「こころを読む」と昨日書いたが、
この表現は、適切でなかった。反省。
こころや私、あるいは自我、なるものは
この世にないというのが持論。
読むというのも適切でない。
言葉や文字で書かれた対象ではない。
では、どう表現すればいいのか。
こころや魂の姿のようなものだろうか。
読むというよりも、見るという方がふさわしい。
弱く、もろく、哀れな姿が見えるのだ。
さ迷う姿もある、おどおどしている姿も、
自慢の多い姿も、不満たらたらの姿も、
それぞれ違う。
庭で見かける、カボチャの芽がいっぱいにツルを伸ばしている。
高く、遠くまで届こうと必死。
人は其々、めいっぱいに頑張っているのだ。
中には役立つことをする人もいる。
何をしているのか不明の人もいる。
俺はエライと威張っている人もいる。
大した違いはないのだが、
違いがあると思い込んでいる人もいる。
人というのは哀れな存在。
その姿がよく見える。