【小説】ラヴァーズロック2世 #37「台風」
台風
窓ガラスに着いた雨粒を風が斜めに走らせている。雨は今朝から降ったり止んだりだ。
ここ最近は登校拒否のロック。涼音もあの日以来ぱったりと来なくなってしまった。
イランイラン失踪以来、徐々に変わり始めていたかれであったが、ここに来てとうとう自室の鉱物コレクションもほとんど処分してしまった。
かれの中のイランイランの存在も希薄になり、彼女の言葉も、もうほとんど聞こえなくなっていた。
台風が上陸する予定だから、今日は外出してはけないと後ろからママの声がする。予定?
ひさしぶりにウィジャボードに行ってみようかと思う。ストライプさんはこんな日にでも店を開いているのだろうか? 営業していてほしいと思う反面、強風に巻き込まれて二度と戻ってこれないような最果てに飛ばされてしまえばいいのに、とも思ってしまう。とにかく、ストライプさんに接続してみれば書店の場所も大体わかるだろう。
ロックはサンダル履きで表に飛び出すと坂道をゆっくりと下り始めた。
空の低いところを灰色の雲が恐ろしいくらいの速さで後ろに流れ去っていく。雨に濡れた家並みは、まるで海底から浮上した古代都市。雲間から時折漏れる日差しが、軒下の濡れた壁をまるで蜂蜜でも塗ったかのようキラキラと輝かせていた。
ベーカリーショップ〈オータム・イン〉の前を通る。店は閉まっていて、ディスプレイ棚に商品はひとつもない。台風に備えての閉店というわけではなく、風に揺れているドアプレートはずいぶんと前から準備中のままだ。
オータム・インの経営も軌道に乗りかけていた矢先、店主である涼音の父親は、何の前触れもなく店をたたんでしまったのだ。
焼き上がったばかりのパンの、あの何ともいえない香ばしい匂い。ある日突然、店主はその香りを生理的に受け付けなくなってしまったらしい。
「よくある話らしいよ……」夕食のテーブルでパパがいった。
だが、ひとり娘を残したまま夫婦そろって失踪してしまうとなると話は別だ。
「まだ子供なのに……とりあえずうちに来てもらいましょうよ……ねぇ、ロックはどう思う?」
ママの提案にロックは何も答えなかった。そもそも、涼音を引き取る気などさらさらないことをロックは知っていた。本当にその気があるのなら、涼音は既にこの家にいて、一緒にテーブルを囲んでいるはずなのだ。自分と涼音の間に何かがあったことをママは知っていて、あえて訊いてきたに違いない。
坂道の両側に塀が現れるたび、パタパタとサンダルの音が反響する。生暖かく湿度の高い強風。必死に飛ぶカラスが横に流されていく。巣でおとなしくしていればいいものを……。あそこにも自分みたいに台風をなめている奴がいる。時折、2、3滴ほどの大粒の雨が音を立ててTシャツを打った。
遠くから坂を登って来る小さな人影が見える。ロックには、それが涼音だとすぐにわかる。
学校から帰ってきたところなのだろう、腕まくりした白いブラウスにネイビーのスカート、右肩には大きめのスポーツバッグをかけている。
向こうもこちらに気づいているはずだが……当然、ふたりの通信は切断されたままだ。このような場合、先に接続した方が負けなのだ。
やがてふたりは目を合わせないまま近づき、そのまますれ違ってしまう。
これぞ若者の特権。社交辞令的な嘘すらつくことができず、つまらぬ意地のために大切な何かを台無しにしてしまう。
ロックは立ち止まり、静かに振り返ると涼音の後姿を見送る。右肩にかけたスポーツバッグのせいでブラウスの襟がずれ、妙なところから首が生えていた。
と、いきなり立ち止まる涼音。身構えるロック。けれど、彼女に振り向く様子はない。長い沈黙。
ロックは涼音の前の路面に、黒い塊があることに気づく。
その塊に微妙な動きがあった瞬間、それがカラスだとわかった。カラスは涼音と対峙したまま、首だけを小刻みに傾けたりしている。
身動きが取れなくなっている彼女を見て、ロックは思わず吹き出してしまう。
突然、翼を広げるカラス。涼音はそれと同時に後ずさりする。
カラスはそのまま舞い上がると頭上の電線に止まった。しかし、依然として上から涼音の様子をうかがっているのがわかる。
「送っていくよ」
ロックの声に、ビクッと身体を硬直させる涼音。
ふたりは頭上のカラスをひとしきり睨みつけたあと、自然に歩き出した。
「こんな時でも登校するんだ」
こんな時って? 台風のこと? それとも親の失踪?
「こんな時だから行くんでしょ」
涼音は言葉少なではあったが、話しかけられたことに迷惑している感じでもなかった。言葉選びは、まごうことなき彼女のそれであったが、声の出し方というか、声の質のようなものが以前とは確実に変わっていることをロックは感じ取った。
突然、大粒の雨が勢いよく降り始め、ふたりは走り出す。びしょ濡れになりながら、ふたりは薄暗いオータム・インに駆け込んだ。
「ちょっと片付けて来るから待ってて」
涼音は業務用らしきタオルをロックに投げ与えると、自分の髪を拭きながら階段を勢い良く駆け上がっていった。
ロックはタオルで髪をくしゃくしゃにしながら、何もない静まり返った店内を見わたした。業務用の巨大な冷蔵庫が奥で静かに唸っている。開かないようにするためなのか、そのドアの隙間はガムテープでしっかりとふさがれていた。手を止めて、ロックは銀色の冷蔵庫をしばらく見つめた。
「もういいよー」
涼音の声に、ロックは思わずビクッと反応してしまう。そして、気を取り直して階段をゆっくりと上った。
シャワーを浴びて来るから部屋で待っているようにといわれ、かれはひとり涼音の部屋に残された。そういえば、秋野家のプライベートスペースに足を踏み入れたことは、今まで一度もなかったなあ……ましてや、涼音の部屋に入るなんて……。
部屋は小さく薄暗い。シングルベッドとテレビモニターの間にアイボリーの小さなテーブルがあり、それ以外の空いたスペースは、小ぢんまりとしたボックス棚で埋め尽くされていた。いわゆる勉強机らしきものはどこにもなかった。まあ、机に向かって勉強する彼女の姿など、正直想像すらできないのだが……。
整理整頓がキッチリされているわけではないが、かといって散らかっているわけでもない。映画撮影用として中途半端に組まれたセットのような、何ともいえないわざとらしさが漂っていた。
遠くから微かに聞こえるシャワーの音。バスルームにいる涼音の姿を想像する。当然、全裸なのであろうが、ロックはどちらかというと彼女のその表情に重きを置く。
かれはその場で服を脱ぎ捨て、全裸になるとベッドに飛び込んだ。
タオル地のケットを頭からかぶると大きく息を吸い込む。これは彼女の匂いなのか? 良い匂いなのかどうかはよくわからないが……。
かれは急にケットを跳ね除けると、ベッドとテーブルの間に仁王立ちし、背泳ぎのように両手をブンブンと勢い良く振り回した。そして、すぐにまたベッドに潜り込んだ。
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