【小説】ラヴァーズロック2世 #07「ウィジャボード」
ウィジャボード
何もない。乾燥した大地がどこまでも続いているだけ。
足元のぬかるみはとうになくなっていて、足の生えた魚たちの這いまわる姿もすっかり消え失せていた。
両手の親指と人差し指で長方形を作り、覗き込む。
フレームの中は雲一つない青空。
大粒の水晶の瞳が太陽の居場所を探し始める。
と、何かに反射したのか、不意に白い閃光が走る。
目がくらみ、青い画面がぐらりと大きく傾いた。
ロックの大きな瞳は更に大きく見開く。
空中に浮かぶ巨大な物体が、突然目の前に現れたのだ。
それは、信じられないほど巨大な抜き身の〈剣〉で、刀身を下に向け、轟音と共にゆっくりと降りてくるのだった。
かれはポカンと口を開け、身動きもできないまま、ただ立ち尽くしていた。
やがて〈剣〉の先端は震える地表に到達。
刀身の先は、柔らかなゼリーに収まるように、何の抵抗もなく大地にゆっくりと刺しこまれていった。
地面に現れた亀裂は、刀身を中心に放射線状に広がると、ロックの足元を周到に避けながら、蜘蛛の巣を模倣するように同心円状につながっていく。
いい加減耐性がついたからなのか、これはどう考えても現実ではなさそうだ、とかれは感づく。
が、そう思い始めた途端、増強現実のイベントはさらに加速し始め、辺りはみるみるうちに見覚えのある街の景観に酷似していった。
1本の太くて深い亀裂は、グレイッシュベージュのコンクリート堤防に挟まれた一級河川に変わり、競い合う野生馬のように並走する2本の亀裂は、普通電車の線路、砕石のかわりに敷き詰められたジェリービーンズとウエハースの枕木の上を走る、ツゥイズラー製のレールに姿を変えていく。
そしてダメ押しとばかりに、深々と突き刺さる最後の一撃。
もう見えなくなってしまった刀身から、真っすぐに走る今までで一番大きな亀裂は、誰もいない閑散とした大通りに……塵ひとつない車道、ハイヒールのモニカ・ヴィッティが通り過ぎたあとは、なお一層冷たく無機質なモノクロームの心象風景。
大通りからフラクタルに枝分かれしたヒビが、どこか懐かしい未舗装の小道に変わり始めると、その脇にトタン葺きの平屋建てがニョキニョキと生えはじめ……心をしめつける路地裏の風景、傷んだ板塀の隙間をヒロシとゴリライモが次々と走り抜けていく。
〈剣〉の最寄りを通過する甘い線路の一部が、象を飲み込んだ蛇のように膨らみはじめると、やがてそれは郊外の小さな駅の形になって、その前にはありふれた駅前ロータリーもセットで出来上がっていく。
そしてついに、〈剣〉の下降は完全に停止する。
ロータリーの中央に突き刺さった巨大な〈剣〉は、鍔と柄の部分のみが地表に顔を出していた。
時間が止まったような静けさ……さっきまでの一大スペクタクルが嘘のようだ。
突然、柄の一部がドアとなって開く。
現れたのは、ひとりのエプロンをした小柄な男。
かれは短い鍔の階段を降りると、ロックに向かって手を振った。
頭上の看板らしきものに〈移動式書店ウィジャボード〉と書かれているのが、かろうじて読める。
「やっぱりストライプさんでしたか、勝手に接続したのは……」
「ダモクレスの剣だよ、格好いいだろう?」
「そんな事より大丈夫なんですか? こんなロータリーのど真ん中に……」
「大丈夫、大丈夫。全裸でエビぞってる変な彫刻より、書店が建ってたほうが絶対イイに決まってるんだから」
ストライプさんは小さな移動式書店ウィジャボードをひとりで切り盛りしている若いアルバイト店員で、愛称の元となった青いストライプ柄のエプロンがトレードマーク。
端正な顔つきの、なかなかの色男なのだが、極端に身長が低く、でっぷりとだらしなく突き出た腹のせいでエプロンの真ん中だけがいつも薄汚れている。
「ていうか、勝手に接続って、ずいぶんな言い方じゃないか。システムを解放するってことはさあ、是非ともいじってやってください、ってことだろう?」
「ストライプさんのために開放してるわけじゃないんですから」
「知ってるよ、スクールだろう」
「委員会です」
「同じようなものさ……それより、どうだい? 新しいスクールは慣れたかい?」
そう優しげな声をかけると、書店員はロックを店内に招き入れる。
「慣れたかって、今日が転入初日ですよ」
「君は転校のプロなんだから、半日もあれば慣れるかなと思って……」
「ぼくにとっては慣れるとか、慣れないとかの対象じゃないんです。特にあのスクールは……」
ウィジャボードは移動式書店だけあって、店内は狭く棚数も多くない。
けれども、この書店には〈全ての書物〉が存在する、とストライプさんは言い張っている。
世界のあらゆる場所で出版されたものはもちろん、何らかの理由で出版されなかったもの、初期の草稿からタイトルが書かれただけで丸めて捨てられた原稿用紙にいたるまで、未完成品をも含めた文字通りの〈全ての書物〉が……。
正直、信じがたいことではあるのだが、ロックが初めてウィジャボードに来店したとき、ストライプさんはさらに信じられないことを口にしたのだった。
「適当にタイトルをいってくだされば、すぐにお取り寄せ出来ますよ」
かれのいうタイトルとは、未だに執筆されてはいないものの、今後書かれる可能性の高い書物のタイトル、誰ひとり構想すらしていなくても、存在するに足る価値を十分に持った書物のタイトルをも意味しているのだった。
要するに、ウィジャボードにとっての〈全ての書物〉とは、存在価値と存在可能性をも含めた上での〈全ての書物〉なのだ。
実体的存在幻想取次システムでタイトルを検索することを、ストライプさんは〈裏に回る〉という。
「今日は特に暇だったんで、久しぶりに裏に回ったんだ。そしたら面白そうなモノを見つけてね」といってストライプさんは1冊の書物をロックに差し出した。
「ウィジャボードが暇なのは、ストライプさんが移動しすぎるからだと思います」
ロックは差し出された書物を受け取る。
「そうかなぁ……でも、飛ばない書店はただの書店だからねぇ……」
書物のタイトルは『透明アクリル世界』、SF小説のようだが著者名はない。
「ワンコインでいいよ。特別学生割引」
ロックは表紙と裏をチェックするとパラパラとページをめくってみる。
「君もそろそろ小説を書いてみたらどうだい」
「いいえ、ぼくにはとても無理です」
「そんなことはないさ。『鉱物的愛について』だっけ? あれは本当に素晴らしかった。あの主題でもって小説を書いたら面白いと思うんだけどな」
「そもそも、あれはぼくの作品ではないですから」ロックはきっぱりと否定する。
「タイトルを思いついたのは君だからね。君が存在価値のある書物のタイトルを言い当てたんだ。おまけに著者不明ときてる」
そう言い終わらぬうちに、ロックはストライプさんの顔の前に『透明アクリル世界』を差し出す。
「これはストライプさんが名前を言い当てたから存在するんですよね。要するに、この『透明アクリル世界』は自分の作品だと、遠回しにいいたいのでしょう?」
「君は本当に面白い」少年の薄笑いにストライプさんも笑顔で答える。
「とにかく、是非読んでほしいんだ。問題は中身だからね。あっ、そうそう、いつものように、1ページ目を開く前に十分に内容を想像しつくして、それから読み始めることを忘れないように」
ストライプさんは、書物を持つロックの手を上から優しく包み込みながら囁いた。
「ストライプさんのせいで、読める小説がだんだん少なくなっているんですよ。最近は、最初の3行くらいを読んだだけで、もう大概は幻滅してしまうんです」
「それは君の想像力が優っている証拠さ。そもそもぼくが君に執筆を進める根拠がそれなんだよ」
想像するのと書くのとでは大違いだと正直思ったのだが、ロックはそれを口にはしなかった。
「そろそろ帰ります」
スクールバックの内ポケットに小説をねじ込みながら、ロックは書店を出た。
「本を開く前の時間を大切にね。ロック君、想像力!可能性の宇宙だよ!」
駅前はいつのまにか人であふれかえっていた。
目的をしっかりと持った足取りで行きかう人々の間を、かれはゆっくりとすり抜けていった。
振り返ってみると、ウィジャボードの姿は綺麗に消え去っていて、ロータリーの真ん中には全裸のオブジェが夕陽を浴びながら反り返っていた。
心地良い疲労感と連れ立って、ロックは高台の家へと歩き出した。
つづく