週報 2024-07-24 ちょっとしたフェス感想
また現実に現を抜かしてしまった。
アクティブな週だった。
人生で初めて夏フェスに参加した。昔のバイト先の先輩から「君UVERworld好きじゃなかったっけ?」と聞かれ「好きですよー」と返したら「フェスのチケット余ってるから行こうよ」となり、参戦。ノリが軽すぎる。なんだかんだでチケット代も半分だしてもらった。
二つほど感じたことがあるが、いずれもスノビズム全開で、金を出してくれた先輩に申し訳が立たないような感想となっている。
なので先に普通のフェスの感想も書いておくか。先輩はここだけ見て帰ってください。
緑黄色社会、歌うますぎワロタ。Vaundy、歌うますぎワロタ、曲強すぎワロタ。HYDEかっこよすぎワロタ。Wurts、ノレる音楽で好きな感じ。ヤバTフェスうますぎワロタ、曲強すぎワロタ。
曲が強いというのは、誰でもその場で乗れる、声を出せるというのがポイントで、ヤバTは「一回聞けばわかるので次のリフレインで声を出せる」なんだけど、Vaundyは「そもそもの曲の認知度が高すぎる」という殴り方をしてきた。すげえ。
逆に言えば、緑黄色社会は曲の作りがテクニカルすぎてピープルがあんまり乗れてない感じがあった。Bメロとサビの区別があいまいで、観衆が棒立ちのタイミングが何度かあった。でも歌うますぎワロタ。
さて、感じたこととして、音楽フェスは現代の祝祭である、というのが一つ目。
まあ当たり前ではある。
ここでいう祝祭はバタイユが言うような過剰性を放出する、蕩尽する機会ぐらいの意味で考えている。ちなみに、俺のバタイユの知識は構造と力+αをちょろっと読んだくらいだ。
音楽フェスには、知らない人たちとクソ暑い会場の中で声を出したり音楽に合わせて体を動かしたりといった、非常にプリミティブな体験がある。これは本来の意味の祝祭と照らしても納得感がある。いわゆる冷たい社会の祝祭だ。
(個人的にはこういう「はっちゃけ」はすごく好きだ。ペルソナの破壊衝動が常にあるし、それは違和感を持って受け止められるべきではないと考えている。)
しかしもう一方では、あのバンドのライブに参加した、あの曲が聴けた、あのグッズを買った、あの場所にいた、というような記号的消費がある。
また、フェスにかかる金額はバカにならない。チケットも暑さ対策もグッズ代も観光地価格以上の食品も。
(フェスで一番びっくりしたところだ。俺の生来のケチさが出ている)
旧来の蕩尽のようでいて、その原資は支配者ではなく労働者の懐から出ている。
フェスへの参加理由の一つに日常の疲れ、ストレスを消費によって発散したい、というのがある(んだろう)が、そのストレスは資本家によって生み出され、フェスへの参加も資本家によって促されている。
(最近マルクス主義を理解しようとしていて、語彙がそっちに寄っている。)
暇と退屈の倫理学から引用しよう。
國分は「暇」が資本主義によって刈り取られていく、としたが、ここでは、祝祭という非日常が刈り取られていく、としたい。
近代化に伴って過剰の放出の手段や契機を失ってしまった人々に対し、極めて合理的に成形された祝祭を提供することで「過剰の蕩尽」機会を搾取する。暇も過剰もその解放の契機も資本主義システムの中に取り込んでいくさまを感じた。
もう一つは、思ったことを言わない社会性の大切さだ。
会場には先輩の他にもう1人、先輩の友人がいて、三人で見て回っていた。僕は特に見たいものもないので2人が見たいアーティストを見ていた。
いくつかのバンドで、その同行者がボロ泣きしていてびっくりした。
というか、トリのクリープハイプがやっていた「帰るの?今からセックスの歌うたうよ?」という煽りにびっくりした。そしてそれに悲鳴を上げる姿にもびっくりした。
あとで詳しく聞くと、「自分が辛い時に励まされていた音楽を生で聞けて感動した」「ずっと聞き続けてきた音楽や世界観(!)がリアルタイムで感じられて声出ちゃった」とのこと。なるほどね。
僕もUVERworldのImpactでめちゃくちゃテンションがあがったけど、それは救われとか励ましとかではなく、知ってる曲で声を出すことができるという第一の祝祭の意義の側面が大きい。
そもそも、俺は音楽を聴くときに音声情報のみを拾って意味情報を限りなく捨象するという癖がある。だから歌詞を聞いて深く共感したり励まされたりということがなかった。
けど、自分の境遇や苦境に重ね合わせて、前進するための気力にしたり、自分の現状を正当化、肯定するためのメッセージとして受け取ることもできるのか、と感じた。というか、俺の目当てのUVERworldが一番それをやっていた。それというのは、「曲のパフォーマンスに入る前に、その曲で伝えたいことを全部言うし、曲の中でもストレートにメッセージを伝える」ということだ。
まあ、曲に対する姿勢の共感できなさをわざわざ伝えたり、となりにいるのにすかしているのは場を盛り下げる行為になると学んでいる。ちゃんと『he is mine』で掛け声を上げました。これが社会性や。社会人候補をなめるなよ。
でもやっぱり恋愛や性のだらしなさを歌にすることに何の意味があるねんと思ってしまう。共感できる人生じゃないことは幸か不幸か…
そういえばちょうど今ハヌマーンが話題になっているので聞いてみた。インターネットではただひたすらカッコいい、歌詞がいいと称賛されていることしか知らない。歌詞を聞いて、かなり面白い視点だなと思うし、自己と強烈に重ね合わせる人もいるんだろうな、とも思うが、やっぱりどこか他人事だ。そういう方向の感受性は終わっているんだろう。でも、終わっていることをひけらかすのは品がないしある意味で優劣のバトルになりうるので、ここだけにしておく。