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『ファラオの密室』著者がエジプトの発掘現場に行ってみた 〜 白川尚史のエジプト旅行記 #03
この記事は、小説家の白川尚史が遺跡発掘の見学でエジプトを訪れた旅行記の記事#03です。
これまでの記事はこちら。
三日目:ルクソール、王家の谷、カルナック神殿
二日目に無事、発掘現場の見学を終えた私は、カイロを離れ、ルクソールに向かうつもりでいた。
ここで前提として、エジプトの地理を簡単に説明したい。
エジプトという国は、古代から今に至るまで、南から北に向かって流れるナイル川周辺に人が集まり、主要な都市が築かれている。それ以外の土地はほとんどが砂漠地帯であり、水の確保も食糧の確保も容易ではないためだ。
かつてヘロドトスが言った『エジプトはナイルの賜物』という言葉も、まさにこのことを指している。年に一回、定期的に氾濫するナイル川は肥沃な土と水を川沿いの農地に運び、豊富な作物をもたらした。古代では暦もこれに連動しており、民は一年を「アケト(増水期)」、「ペレト(播種期)」、「シェムウ(収穫期)」という三つの季節からなるものとして認識していた。
また、ナイル川は食糧だけでなく、水運という重要な役割も担っていた。南北に流れる川は冬季には季節風を受けて、帆を張れば上流へ、畳めば下流へと、両方向へ石材をはじめとする物資や人々の移動を助けた。もしこれが川を下ることしかできなかったら、歴史は違う様相を示していたかもしれない。なお、古代には上(かみ)エジプトと下(しも)エジプトという二国に分かれていたが、ここでいう上は地図の上下ではなく川の上流を指していて、すなわち南側が上エジプトである。
というわけで、エジプトの主要な都市というのは、古代でも現代でもナイル川に沿って存在しているのである。古代エジプト観光で有名な場所でいうと、北から、カイロ、ルクソール、アスワン、アブ・シンベルといった並びになっている。カイロより北でナイル川は地中海に注いでおり、アレキサンドリアなどを中心に地中海沿岸はリゾート地域になっているそうだ。
もちろんどの都市にも重要な王墓や神殿があり、私は限られた日程でどこに行くべきか迷ったのだが、今回はカイロ以外にもう一都市、ルクソールへ赴くこととした。
ルクソールはかつてテーベと呼ばれ、かの有名な王家の谷があるところで、ツタンカーメンを初めとした多くのファラオの王墓が見つかっている地である。また、ルクソールにはカルナック神殿があり、アメン信仰の中心地であって、新王国時代には首都としてエジプトで最も栄えた都市であった。
ところで、拙著『ファラオの密室』のストーリーにも関わるのだが、新王国時代のファラオ、アクエンアテンは都をテーベからアケトアテン、すなわち現在のアマルナへと移した。その背景として、テーベのアメン神官団が政治的な影響力と財力を増しすぎてしまったことが原因だと言われている。それは、ファラオの権威の相対的な低下を意味していた。
アクエンアテンは、神官団の力を削ぎ、ファラオの威光を再び確かなものとするために遷都を行い、同時に、神をアテンただ一つとし、他の神々への信仰を行わなかった(他の神々への祭祀を停止し、偶像を破壊していったといわれるが、積極的に信仰を禁止していたかは諸説あるようだ)。
とにかく、旧来のアメン神を中心とした多神教を揺るがす宗教改革を一代で行ったのがアクエンアテンである。
ただ、首都アマルナとアテン信仰は彼の死後まで受け継がれず、次に王位についたツタンカーメンは、首都をメンフィス(カイロやギザの少し南)に移し、アテン信仰をアメン信仰へと戻した。その様子を記述している有名な碑が、信仰復興碑である。
私のエジプト行きの目的の一つが、この信仰復興碑を見ることであった。そして私はこの碑がカルナック神殿で出土したことを知っていたので、カルナック神殿のどこかに置いてあって、行けば見られるのだろうと頭から信じて疑わなかった。
この思い込みが、後の悲劇を招くことになる…。
というわけで、旅の様子に戻る。
三日目の朝五時にホテルをチェックアウトし、カイロ国際空港へと向かった。ルクソールへは鉄道も通っているようだが、今回は飛行機を選んだ。航空会社はもちろん EGYPTAIR である。
そして私は、カイロでお世話になった日本語の堪能なガイドの方に、ルクソールまで着いてきていただくことにした。ルクソールで一泊の予定であったので、そのためにガイドの方にも同じホテルで一泊頂いたのである。もちろん旅行会社さんにご提案頂いたことだし、各種経費は私の方で負担はしたのだが、わざわざ同行いただいて申し訳ないという気持ちもあった。
ただ、異国の地で、空港内も含めてサポート頂けるのは本当に心強かった。
そして、ルクソールへと向かう朝一の便は特に問題なく飛んだ。だが、一つ問題が発生する。帰りの便もガイドの方と同じ飛行機で取っていたのだが、発券してみたらなぜか私の便が違う便に変わっていたのだ。しかし、便名以外の部分、例えば搭乗時間や行き先は特に変わっておらず、一瞬なにが起こっているのか理解できなかった。
つまり、国内便とはいえ、出発地も到着地も同じで、出発時間も到着時間も同じで、しかし便名だけが違うチケットが私とガイドの方とで二種類存在していたのだ。そのときは、まさか同じ時間に二便あるわけないし、便名の記載のミスだろうと思っていた。
先回りして話すと、翌日、飛行機は全く同じ時間に二便あることが明らかになった。おそらく利用者が多かったから増便したのだろうが、これには度肝を抜かれた(しかし、同じ時間、同じ目的地の飛行機だからといって、勝手に私の便を変更するのもいささか乱暴である)。
その時の時刻表を写真に残したかったが、やめておいた。エジプトに行く際は、写真を撮るタイミングや場所は気をつけた方がいい。基本的には、警備や軍事に関わる写真などは撮ってはいけないことになっているようで、空港を含む公共の施設においては原則撮影禁止である。(この旅行記に写真が少ないのもそのためだ)。
そしてもう一つ、王家の墓などにおいても、カメラでの撮影は禁止である。しかし、実情を考慮して、スマートフォンのカメラ機能での撮影は許可されているようだ。とはいえ、墓であることを忘れることなく、規則以前に死者の尊厳を冒涜しないような配慮はすべきであろう。
さて、ルクソールに到着した私はハトシェプスト女王葬祭殿などの遺跡の後、王家の谷を見てまわった。ツタンカーメンの墓にも入ることができ、大変感動した。ただ、いつものごとくその詳細は省くことにする。私はあらゆるネタバレというものが、するのもされるのも大嫌いなので、紹介だけはするものの、皆さんには是非とも自身で実際に見て、体験してほしい。
昼食は街のレストランに行ったが、観光客向けの店はドルやユーロで値段が書いてあり、会計もそれで可能である。ここではカルカデと呼ばれるハイビスカスティーを飲んだ。エジプトではポピュラーな飲み物のようで、甘く爽やかで美味しい。これとストロベリージュースも飲まれていて、こちらも甘く美味しかった。そういえばエジプト国民の特徴として、砂糖の消費量が多く、日本の倍以上だそうだ。
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食後は土産物を買いに、現地の石屋へ向かった。ルクソールではアラバスタ(雪花石膏)が特産品である。アラバスタは大理石に似た石で、見た目も美しい。石屋では大きな石が店先に積まれ、それをさまざまな器具で削って形を仕上げていく。
そんな石屋がたくさんある中で、私が行ったのはこちらのお店。非常に気さくに色々と教えてくれ、気持ちよく買い物ができた。なかなか高価であるので、エジプト流の値段交渉にも気合いが入る。
結局、ここでは花瓶を二つ購入した。丁寧に梱包頂き、危なげなく日本へ持ち帰ることができた。
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そして、満を持して午後にはカルナック神殿を訪れた。ここは本当に広くて、大きい神殿だった。古代には当時のエジプト中の富が無尽蔵に注がれたという話も聞くが、さもありなんという豪華さで、笑っちゃうくらいに規模がでかい。その分見どころもたくさんである。事前に調べた印象とはやはり違ったので、これも聞くと見るとでは大違いである。
さて、カルナック神殿の中で、いよいよ私は信仰復興碑が見られるのでは、と期待を高めていた。そこで見学が一段落したところで、ガイドの方に、どこに行けば見られるかと聞いてみたのだが、彼は困惑するばかりで「おそらく、ここにはそういった内容の碑はないと思う…」とのことだった。更に「多分、カイロの博物館にある」とのこと。
自分にあきれてしまうのだが、普通に考えて、カルナック神殿で出土したからといって、カルナック神殿にそのまま置かれているとは限らないのだ。これだけ見たいものなのだから、事前にどこにあるか調べていけばよかった…。
だが幸い、どうやらカイロの考古博物館に行けば見られるらしい。しかも私には、ちょうど二日後に金沢大学の河合望先生が、わざわざ予定を空けてくださって、考古博物館の解説をしてくださるという大変名誉かつ貴重な体験をする予定があった。
そのため、(その時解説してもらったら最高じゃん!)とむしろ私はテンションを上げた。
河合先生は、そもそもツタンカーメンを含む新王国時代研究の権威であられるし、『トゥトアンクアメン王の「復興碑」について』という論文も書いておられる(The journal of the Egyptian studies (7), 46-60, 1999)。また、ご著書の『古代エジプト全史』はエジプトの古代史を学ぶ上でとてもお勧めできる本である。
(人気の本なので、今は紙版がほぼ売り切れてしまっていて、Amazonでも定価で買えないようです。一応 Kindle 版のリンクは貼っておきますが、紙版もきっと重版されると思われるので、紙で欲しい人はそれまで待ってもよいかもしれません)
カルナック神殿の後は、ルクソール神殿へと向かった。ルクソール神殿はカルナック神殿の副神殿?になっているらしく、長い長い参道で繋がっている。
その距離、なんと2.7km。そして参道の両脇には1,200体ものスフィンクスが鎮座しており、歩く以前に見るだけで打ちのめされてしまう。この参道も修復され公開されたのはつい二、三年前だそうだ。
ということで、観光を終えた私は、三日目の宿となるヒルトン・ルクソールへと辿り着いた。エジプト滞在中は遺跡をとにかく歩き回るので、夕方にもなるとクタクタである。歩数を iPhoneで確認すると、日に16,000歩を超えていた。また、炎天下で一日陽にあたっていると、それだけで疲弊するものである。
そんなわけで、カルナック神殿・ルクソール神殿を歩き回った私は、ホテルに戻ると夕食も取らずに寝てしまったのであった。
こうして私のエジプト滞在の三日目は終わった。
つづく