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GoHandsの機械的メディア美学――『ハンドシェイカー』から『もめんたりー・リリィ』へ(抜粋版)

この力は……この世界は……
ハンドシェイカーって何なんだよ!

『ハンドシェイカー』#1「Conductor to Contact」より

目まぐるしく動くカメラワーク、魚眼レンズを介したかのように歪んだ空間、画面をところ狭しと舞うパーティクル、過剰にぎらついた色彩……おそらく未来において起こるのであろう、戦闘シーンの断片のカットアップに被さるように発せられる上記のモノローグは、その作品を観ている私たち視聴者の心情を代弁してくれているかのようだ。

『ハンドシェイカー』は2017年1月~3月に放送された、アニメーションスタジオ・GoHandsによるオリジナルアニメ作品である。スタッフのコメントによれば「今アニメ制作に出来る技術を出来る限り取り入れるという気持ちで作った」[1]とのことだが、そうして取り入れられた無数の技術=テクノロジーがストーリーや世界観を透明に伝えるメディウムとしての役割を果たさず、ただただ異物感を与えるものとして前景化している印象を一見して受ける。

しかし、だからといって不出来な作品と簡単に断ずるには惜しい固有の魅力が、この作品には宿っている気がしてならないのだ。本稿は、そんな『ハンドシェイカー』の映像表現の特異さを正面から受け止めつつ、それに「音楽」という補助線を与えることで一定の秩序を見出し、ひいては本作を生み出したGoHandsというスタジオに特有の美学を解き明かさんとするものである。

[1]アニメ「ハンドシェイカー」公式(@hs_p_info)より、2017年2月22日の投稿。
https://twitter.com/hs_p_info/status/834055092902834176

「機械」と「情動」のあいだで

まずは物語の内容を概観しておこう。本作は「ハンドシェイカー」と呼ばれる二人一組のペアがそれぞれの「願い」を賭けて戦うという、いわゆる「バトルロイヤルもの」である。戦いの果て、勝ち抜いたハンドシェイカーは「神」に謁見する権利を得るとされるが、「神」とは一体どんな存在なのか、そもそもハンドシェイカーとは何なのかといった謎は、本編では一切明かされない。また「20XX年のOSAKA」が舞台となっており、現実の大阪をトレースした風景の中で展開する日常シーンと、非日常的な戦闘シーンを交互に描く形で進行する。

取り急ぎ、押さえておきたい設定が二つある。ひとつは戦闘が行われるのが「ジグラート」と呼ばれる、プロジェクションマッピングのように現実に覆い被さる形で出現するが、ハンドシェイカーにしか入ることができない空間である点だ。これにより、視聴者にとっては「見慣れた大阪の風景でありながら、無人」という絵面となる。

そして、もうひとつは「ニムロデ」という武器を用いるという点である。これは各ハンドシェイカーの深層心理が形になったものとされ、一人ひとり形状が異なる。ハンドシェイカーはその名の通り、パートナーと手を握り合うことでニムロデのパワーを回復/増幅することができ、二人の心理状態がシンクロしているほどそのハンドシェイカーは強くなるという演出がなされている。ニムロデが破壊されれば戦闘は終了となり、敗れたペアはハンドシェイカーとしての力を失うが、敗北=死ということでは必ずしもない。

本作の映像は、手描きの作画とCGによる空間設計のハイブリッドとなっている。セルアニメーション的な、レイヤー間の差分が生み出す錯視――トーマス・ラマールが言うところの「アニメティズム」――だけでなく、3D空間に設置された仮想的なカメラが、縦横無尽に空間を飛び回ることによっても運動が表現されるのだ。これにより「キャラクターではなく、キャラクターを追うカメラを見ている」とでも表現すべき特異なアクションシーンが生まれ、たとえば、カメラが地面の下に潜り込み、半透明になった地面の下からキャラクターを見上げるといった奇妙なアングルも画面上に頻出することになる。

本作において特筆すべきは、こうした仮想的なカメラの存在感が、日常パートにおいてもせり出している点である。キャラクターが室内で会話しているだけのシーンであっても、パノラマ視点に置かれた仮想的なカメラアイが横滑りするように画面を舐めていくし、主要人物が一切映っていない、モブキャラクターが通行するだけの都市の雑踏が、唐突に魚眼レンズ風に映し出されたりもする。

画面には映っていないはずのカメラの存在感が強調されるこうした映像表現は、飛び散る火花や室内を舞う埃のパーティクル表現や、物体の表面を滑るように移動する強い反射光表現と合わせて、アニメーション制作における「撮影」の工程を強く前景化させるものだ(周知の通り、デジタル時代における「撮影」とは作画の上に陰影や光のエフェクトを重ねる工程のことで、その名称は過去にはフィジカルな素材をスタンド上で重ね合わせてカメラで「撮影」していたことの名残である)。

こうして整理すれば、本作の映像表現はマーベル・シネマティック・ユニバース作品などのVFXの恩恵を存分に受けた実写映画において指摘される「ポストシネマ」というパラダイムや、GoPro・ドローンなど撮影機材のイノベーションによってもたらされた「ポストカメラ」というパラダイムとも軌を一にするものとして理解することができるだろう。

デジタルテクノロジーが前景化した映像は、どこか非-人間的で「機械」的な印象を視聴者に与える。ここで注目に値するのが、主人公である高槻手綱(タヅナ)のニムロデが「歯車(ギア)」の形状をしているということだ。キャラクターの「深層心理」の顕現であるニムロデは、3DCGによって固有のオブジェクティブな存在感を持たされている。他のニムロデは剣や銃など定まった形状を持つが、タヅナのニムロデは無数の歯車の集合体であり、用途に応じてその姿を変えるのだ。刀剣、手甲、防御壁、移動手段……バトルの勝利=物語の転回点はタヅナがこのニムロデを戦局に応じて適切な姿に組み立てることができた――彼の口癖を借りれば「噛み合った」――瞬間にこそもたらされることになる。ニムロデという「機械」の動作が物語を駆動するのである。

また、本作のヒロインである芥川小代理(コヨリ)のキャラクター造形も見逃せない。物語の開始以前から長い昏睡状態に陥っていた彼女は、無数の医療機器に繋がれた状態で本編に登場する。タヅナが手を握る=パートナーとなったことで目覚めたコヨリは、当初は言葉を発することができず、表情の変化にも乏しいことからアンドロイドめいた印象を与える。先述したようにハンドシェイカーの強さとは二人の心理状態のシンクロ度合いに比例するから、二人が「ギア」を適切に組み立て戦いを勝ち抜いていくということは、「機械」的だったコヨリが「情動」を獲得していく過程だとパラフレーズすることができるだろう(事実、コヨリが言葉を発するのと、自らのニムロデを発現させるのは同時である)。

このように本作においては、「機械」と「情動」のあいだに生じるコンフリクトがひとつの基調をなしている。視聴を開始した当初はその「機械的」な画面に違和感を覚え、次第に慣れていくというその経験自体が、ストーリーの進行とシンクロしたものになっているのだ。

ミキシングという方法論

映像作品においてそれが「機械的」であるという修辞は、鑑賞者である私たち人間が「非-機械」である以上、基本的には物語への没入を阻害し、戸惑いを与えるものであることの謂いでしかないだろう。しかし、視覚からだけでなく、聴覚からの情報を分析要素に加えることで、その意味合いは変わってくる。結論を先取りすれば、本作のサウンドトラックはまさに「機械」と「情動」の狭間で揺れ動くものとして発展してきた、ある音楽ジャンルが選択されている。その使用法に目を向けることで、本作において聴覚情報こそが視覚情報を補完する形で、視聴者と物語とを情動的に結びつけるメディウムとなっていることが理解できるだろう。

『ハンドシェイカー』のサウンドトラックは、通常のアニメのサウンドトラックとは異なる成立工程を経ている。普通、アニメのサウンドトラックは監督サイドから劇伴作家に「悲しいシーン」「〇〇(キャラクター名)のテーマ曲」といったテキストベースの「メニュー表」が渡され、それに応じる形で作曲されていく。一方、本作では「音楽制作」にクレジットされている音楽レーベル・GOON TRAXからリリースされている既発の音源――つまり、アニメ用に書き下ろされた楽曲ではない――から選曲されるという形が採用されているのである。

GOON TRAXは2006年にKADOKAWA(当時は角川書店)傘下のメディアファクトリーにて音楽プロデューサーの寿福知之によって立ち上げられた音楽レーベルである。寿福は2016年に独立し株式会社FABTONEを設立。以降は同社が抱えるレーベルとして存続している。2019年現在、シリーズ累計売上38万枚を超える[2]コンピレーション『IN YA MELLOW TONE』が代表的なシリーズとして知られている。

GOON TRAXがコンセプトとして掲げるのは「日本人の心に響くHIP HOP」。このコンセプトについて寿福は以下のように語っている。

日本人が作れるヒップホップってこういうのだなって思ってるんですよね。普通に生活してる分にはそんなに不幸な事も訪れないし、生きるのにも困らない。そういったときに、じゃあもっと音楽的に色んな楽器の要素を入れて、普通に8小節ループのパートもあるけれどこれは打ち込みじゃなくて生楽器でやるからこんなに響くんだ、みたいな要素を沢山増やしていきたくなるっていうか。[3]

ヒップホップ・カルチャーの始まりには、人間とターンテーブルという「機械」との協働が欠かせなかった。その起源は、アメリカに渡ったジャマイカ移民たちがブロンクスで開催していたレイヴ・パーティにあるとされる。ヒップホップの四大要素として「DJ」「MC(ラップ)」「ブレイクダンス」「グラフィティ」が挙げられるが、その中で最も早くに出現したのがDJである。そのオリジネイターのひとりであるKool Hercは、フロアをより湧かせるために新たなターンテーブルの使用法を生み出した。Herc自身も序文を寄せている、ヒップホップ・カルチャーの通史的モノグラフとして名高い書物『ヒップホップ・ジェネレーション』から引用しよう。

ダンサーが最も盛り上がるのは、曲中の短いインストゥルメンタル・ブレイクだった。バンド全体の演奏はストップし、リズム・セクションだけがグルーヴを繰り出す。メロディ、コーラス、歌なんて二の次。一番大切なのはグルーヴだ。グルーヴで盛り上げて、その勢いを持続していくのである。ハークはレコードの核にあるループ、つまりブレイクに焦点を合わせた。〔…〕「メリーゴーラウンド」と彼が称したテクニックで、ハークは同じレコードを二枚使いした。一枚のレコードがブレイクを終えると、もう一枚のレコードでブレイクを始める。こうすることで、五秒のブレイクダウンが、五分も繰り返される、猛烈な即席ループ・ヴァージョンとなるのだ。[4]

世に言う「ブレイクビーツ」誕生の瞬間である。当初は二枚の同じレコードを用いて間奏部分を長く持続させるために生まれたこのテクニックは、やがて異なる複数の音源を滑らかに繋ぐテクニック「ミキシング」へと発展していく。

『ハンドシェイカー』で採用されている「既存の楽曲を繋ぎ合わせてシーンを演出する」という方法論が、こうしたDJカルチャーへの目配せを含んでいることは明らかだ。こうした制作方法において、監督をはじめとした映像スタッフに求められるのは、シーンの切れ目に応じてどのような楽曲が必要かを判断する能力よりもむしろ、手元にすでにある音源、つまり、固有の性質を持ったひとまとまりの時間的オブジェクトを組み合わせて、どのように意図したムードを作り出すかというDJ的なセンスだと言える。

[2]FABTONE Inc.公式サイト『IN YA MELLOW TONE 15』商品紹介ページより。
http://www.fabtone.co.jp/release/detail/id/195

[3]〈GOON TRAX〉10周年記念『IN YA MELLOW TONE』コンピのベスト・アルバムがリリース (OTOTOY)
https://ototoy.jp/feature/2016121500

[4]ジェフ・チャン著、押野素子訳『ヒップホップ・ジェネレーション――「スタイル」で世界を変えた若者たちの物語』(リットーミュージック、2007年)

ジャジー・ヒップホップ

では、GOON TRAXの音源に固有の性質とはいかなるものなのだろうか。レーベルオーナーの寿福は先に発言を引用したインタビューの中で、「ジャジー・ヒップホップ」というジャンル名を引き合いに出しつつその音楽性を説明している。多くの音楽ジャンルがそうであるようにその定義には所説あるのだが、「ループトラックにジャズの生演奏をサンプリングしている」点、「ピアノ主体のメロウなメロディを持つ」点をひとまず特徴として挙げておこう。

ジャズとヒップホップの融合を推し進めた人物として、幾人かの名前を挙げることができる。1974年生まれ(2006年没)のトラックメイカー、J Dillaは、リズムマシンにおけるビートメイキングにおいて使われるクオンタイズという補正機能をあえて使わないことで独特の「ヨレた」ビートを生み出した。ターンテーブルからリズムマシンへと主な機材が移行してからも、本質的に「マシン・ミュージック」であったヒップホップに、人間味のあるグルーヴを取り入れようとしたのだ[5]。

また、同じ頃に登場した重要なプレイヤーがD’Angeloである。J Dillaと同年生まれ、ヒップホップ世代のR&Bアーティストである彼もまたマシン・ビートによる無機的なループ・ミュージックの影響を受けながら、生演奏による「ヨレた」ビートを志向した。「生演奏によるヒップホップ」のパイオニアたるグループThe Rootsのドラマー、Questloveは、同世代である彼らの手法に強い刺激を受けたという。

俺はこのままだと周りから「こいつはまともに叩けない」と言われるぞと感じていた。ドラムマシンのように正確に叩けるからリスペクトされてきたのに、奴(引用者注:D’Angeloのこと)ときたら俺が積み上げてきたそのジェンガを崩した上に、これまで以上に下手に叩けって頼んできやがった。だから、俺はただクリックから外れて叩くんじゃなくて、“ずれたドラミング” を自分の中にプログラムしなければならなかったのさ。[6]

彼らの発明した新しいビートは、宇多田ヒカルの作品にも参加するドラマー、Chris Daveをはじめとしてジャズの世界にも影響を与えている[7]。「人間味のあるヨレたマシン・ビート、を取り入れた人間の叩くビート」とテキストで読むと、「一周回って元に戻った」だけのようにも感じられるが、実際に音源を聴き比べてみれば、そこにある確かな差異を知覚できるはずだ。

GOON TRAXの送り出すジャジー・ヒップホップも、こうした探求と歩調を合わせるものである。「機械」的に反復されるループ・ミュージックとしての性質を持ちながらも、生演奏の身体性に強く依拠したそのグルーヴを意識することで、視聴者は様々なデジタル・オブジェクトが氾濫する「機械」的な映像の中になお存在する「情動」的な揺らぎを再発見することになるだろう。

また、視聴者の情動に働きかけるものとして、メロディの要素も重要である。そもそもジャジー・ヒップホップというジャンルがヒップホップのサブジャンルとして分岐したのは、先に引用したようにヒップホップの創世期において「二の次」とされてきたメロディの要素を、より際立たせたものだからと考えられる。

本作のサウンドトラックには、対決のクライマックスに流れる「Dust Trail」(acro jazz laboratories)や、コヨリが覚醒し、自身のニムロデを発現させる際に初めて流れる「Go With」(Hidetake Takayama)など、主人公サイドの勝利を確信させるカタルシスに満ちたメロディを持った楽曲がいくつか存在する。一方で、サウンドトラック全体の基調をなすピアノサウンドは、切なくメランコリックなものだ。日常曲と戦闘曲のBPMは異なるが、サウンドの質感は統一されているので、耳馴染みよく繋ぎ合わされる。

つまり、全体的に切なくメランコリックなトーンを維持したまま、純粋に速度感の変化のみによって、視聴者は情動をコントロールされるのである。この体験を通じて、視聴者はハンドシェイカーたちの戦いが本質的にメランコリックなものであること――「願い」を賭けた戦いに勝利するということは、敗北したペアの「願い」を踏みにじることでもある――を、物語の進行とともに実感していくはずだ。

[5]J DillaがどのようにMPC3000を使いこなしたかを解説するムービー(FNMNL)
https://fnmnl.tv/2017/12/09/43320

[6]インタビュー:QUESTLOVE(Red Bull Music Academy Japan)
http://www.redbullmusicacademy.jp/jp/?section=magazine/interview-questlove

[7]クリス・デイヴ&ザ・ドラムヘッズ特集 ~“ジャズ・ドラマー”としてのクリス・デイヴ&逆引き「ジャズ・ドラマー小辞典」(Billboard JAPAN)
http://www.billboard-japan.com/special/detail/2315

全文は以下より!

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