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創作『悪いひと』

注意

 実際の事件や犯罪とは一切の関係がない、フィクションです。助長する意図もございません。
 没にした一次創作の導入ですので、続きません。


悪いひと


「いつまでそうしているんですか」
 誰かが来た時のために作られた簡易的な客間の、革張りのソファに向かって、茂木が言う。英字の書かれた薄いプリントTシャツと、キッチリとしたズボンの青に着られた、わざとなのかもともとなのか分からん寝癖みたいな髪の毛をした茂木は、清廉な警察署内ではよく浮いている。しかし浮いているのは、だらしなく散らかったファイルや旧型のパソコン、意味のない観葉植物、ダサい茂木でもなく、間違いなく山田という男であった。
「休憩、終わっちゃいますよ。給料を発生させて昼メシ食う気ですか?」
「うるさいなぁ、茂木後輩は」
 山田は革張りのソファから起き上がって、老眼鏡を外すと目を瞬かせる。寝癖のない黒髪を手首で撫でつけ、老眼鏡を外した目で見えるのかは知らないが、ただじっと手にある資料を見続けていた。グレーのリブが入った、小綺麗なトップスに、アイロンがかかった白のスラックスは清潔そのものであったが、股を大きく開いてボールペンを耳に掛けているので、素敵には映らない。
「連続殺人事件の資料。そんなに見つめて、何が楽しいのやら」
「とても、楽しいよ。分からないかな。ああ、茂木後輩は分からないか」
「茂木後輩って呼ぶのやめてください、山田さん」
「気軽に山田先輩って呼んでくれていいよ」
 話しているうちに興でも醒めたのか、山田はようやく書類を閉じてファイルに丁寧にしまった。ファイルには可愛らしいうさぎとくまが、ポップな薬物を前に『断る勇気』と人語を喋っている様子が描かれている。ソファからようやく立ち上がり、漁ったカバンから剥き出しのラッキーセブンとライターを取り出して去ろうとする山田の背を、茂木は真面目にも追いかける。
「昼メシはっ?」
「今から行ってくる」
「時間、ないですよ」
「足りるよ。ほら……あと五分もある」
 そう言って見せたアナログの腕時計は、もうひび割れていてほとんど見えない。茂木はそれ以上ついていくことはせず、肩を落とした。ほとんど見えないながらにもその腕時計が、あるいは山田の時間感覚が、二分もズレていることに気がついてしまったからである。
「クッ……」
 ボサボサ頭を掻き殴る。茂木は、時間には厳しい男であって、そのせいで女性に逃げられた経験もあるが反省も後悔もなくやはり、時間にはどれだけ真面目でいるべきだと考えていた。そんな茂木にとって、直属の、更には先週からタッグを組まされただらしのない、先輩である山田はストレッサーでしかない。いくどとなく口から「クソ野郎」と出そうになっても抑えてきた茂木も、今週に入ってから「ク」まで出てしまっていた。来週には「ソ」、再来週には「野」あたりまで出てしまって、ついには警察署内で、先輩の警察に対して「クソ野郎」と叫ぶ日が来てしまうような予感がしている。
 しかし茂木は、苛立ちを大きな足音で誤魔化しながら、山田が散らかした客用のテーブルを淡々と片付けていく。そのうち、一番下に置かれていた書類が目についてしまい、そっとページを閉じると、「あーっ」とひときわ大きな声が茂木の鼓膜を貫いた。
「勝手に片づけないでよ、母さん!」
「誰がお母さんですかっ」
 喫煙するだけして帰ってきたのだろう、煙草の匂いが染みた山田にこの紙の束を投げつけてやりたい気持ちをなんとか堪えて、茂木は纏めた書類を山田に手渡してやった。少々乱暴に、胸に押しつける形で、ついでに体を揺らしてやろうとばかりに……茂木からすればとっても優しく、渡してあげたのだった。
 茂木は自分のデスクに掛けてあった制服の上着をキッチリ着ると、カバンを持ってエレベーターのボタンを押す。エレベーターが上ってくるのを待つ間……ついでに山田が横に並んであたふたと手一杯の荷物を上着のありとあらゆるポケットに詰める間、茂木は、粗雑にも開いたまま置かれていた書類の刺殺された遺体に頭を支配されてしまって、ペットボトルを、水に溺れるほどに傾けた。

 連続刺殺事件は、すでに犯人の特定にいたりかけている。しかし、あと一歩というところが掴めず、そのために創設された捜査本部も業を煮やして、下っ端である山田や茂木を急かし立てていた。
「上は、俺たちにどうしろって言うんですかね。証拠も証言も出涸らしているのに」
 社用車を運転しながら、茂木は文句を垂らした。こういうとき、山田は、そうだねとかたしかにねとかしか言わないでくれるから、そこだけは心地が良かったのだが、今日は違ったらしい。
「茂木くんはさ、刺殺事件の犯人のこと、どう思う?」
「はい? どうもこうも、ないですよ」
「なんでもいいから。嫌とか、クソとか」
 クソ野郎が先にクソって言うのかよ、と悪態をつきたくなる陰気な茂木はしかし、運転に集中しながらもその言葉の意味を考えた。
 今回の複数の刺殺事件は、同一犯と見て間違いないという報告はずっと前から上がっている。山田と茂木がタッグを組んでこの調査に駆り出されたその日中に、それは確定事項とされた。一人の犯行と見ているが、協力者がいてもおかしくはない。ただし、予想の犯行時刻と移動距離を鑑みても計画的犯行だった。
 ……たとえば……犯人を特定したとして……捕まえたとき、どれだけの達成感があるだろうか。次の犯行も予定していたのなら、どれだけ悦ばしいことだろうか。そいつはおそらく我々警察を一生恨むだろうし、我々はそれに歓喜する。そう考えると、嫌だとかクソだとかはどうでもよくて、何と言うか。
「宿敵……みたいなものですかね」
「宿敵?」
「我々警察の、敵であることには違いないでしょう」
 助手席で呑気に寝転んでいた山田が、のっそりと起き上がる。茂木は視界の端で、見られているのを感じながらも赤信号を睨み続けた。山田と茂木は、今日もまた新たな証言が見出せるかも知らない無策な聴取に躍り出なければならなかった。少しずつ規模を拡大しては縮め、場所を変えては時間を改め、そんな日々は誰にとっても、短気な茂木であればなおさら、苦痛であった。今となっては本部内で貧乏ゆすりのひとつもしないのは、山田だけである。山田が何を考え、そうしていられるのかは分からないが、今もこうしてマイペースにしている山田は間違いなく、異質で奇妙な存在だと、茂木は思っていた。
「犯人は、敵じゃないかもしれない」
「はい?」
 助手席側の窓が開く。山田が勝手に開けたのだ。反抗するように閉じようとしたが、自動で閉まるとともにまた、ゆっくりと開いていった。
「三井巡査。君、苦手だったよね」
「そりゃ、あの人は横柄で態度も悪い。なぜ今、三井巡査の話を?」
「彼さ、奥さんと子供いるの。二人……」
 生温い風が汗を生む。茂木は意味もなく何度も窓のコックをガチャガチャと上げたが、やがて長い赤信号が青に変わると、前の車の発進の遅さに舌打ちをした。
「結婚して子供を産んだら良い人ですか」
「そうじゃない。君のそのせっかちなくせ、嫌いじゃないけど、たまには立ち止まって考えてみてほしい。君には物を考えられる、大きな脳があるんだから」
 山田の発言が苛立ちを大きくする。茂木はついにクラクションを鳴らした。前の車が慌てたように進むのを見て、腹立たしさは残れど心は晴れやかになっていた。あとは、生温い風が遮断されてエアコンの冷たさに浸れれば良い。
「三井巡査は好かれているとは言えない。けれど彼を肯定する人間はしっかりいるんだ。彼を好く人間はいる。彼には、忌避される一面があるけれど、好かれる一面も確かにあるんだよ」
「つまり我々に忌避されている傍らで、殺人犯は、好かれているとでも?」
 茂木は窓の開閉に鍵を掛けて、無駄な攻防に終止符を打つ。
「ありえない。人殺しが、そんな一面を持っているわけがない」
 窓が開かなくなったことに、しばらくしてから気がついた山田は、つまらなそうにまたリクライニングシートを倒して寝転がった。
「君のそういうところ、嫌いじゃないよ。伸び代を感じられて良い」
「嫌われてるテイで話すのやめてくれます?」
「好かれたことあるの?」
 茂木は開けた口をすぐに閉じた。図星であった。茂木は、時間に厳しかったために女性に逃げられ、短気だったために友人に逃げられた、孤独な人間の最中であった。言い返そうとして思い出される出来事の中にいる姿が若くなればなるほど、自分の首が締まっていく。今に残っている縁なんて、ひとつもないのだった。それでも茂木は、自分を変えようとはしなかった。変えようと思えなかった。だって、悪いのは彼らで、茂木自身ではないと思っていたから。
 前を走っていた車との車間距離が離れていく。こちらを警察の車とはつゆ知らず、法外な速度でことを急いているようだった。茂木は山田にランプを手渡し、トランシーバーを手にする。
「前の車。練馬の五二三。練馬の五二三。停まりなさい」
 ウーウーと車内に響く。山田が一向にランプを取り付けない様を、横目で急かしたが、「窓、開かないんだもの」と言われて、茂木は思い出したように、静かに鍵を開け、窓を開いた……。

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