【開運酒場】鬼子母神のお膝元で、距離感の絶妙なBarに遭遇〜雑司が谷・Tsujiya〜
その駅に降りようと思ったのはただの気まぐれだった。
雑司が谷。
通勤で副都心線を使う自分にとってはただの急行通過駅。
だけどその夜はなぜか、そこで一杯飲んで帰りたいと思ったのだ。
地上に出るとそこは都電荒川線。
踏切を渡るとすぐに鬼子母神の参道があった。
古い石畳に大きなケヤキの木。
祭事が近いのか家々の玄関に灯篭が灯る。
参道の突き当たりでふと見つけた不思議な店。
いや、最初は民家か事務所だと思った。
だって屋根に「辻会計」と看板が。
しかし窓から中を見ると、酒ビンが並び、人の気配もある。
壁掛けテレビには競馬チャンネルの馬柱。
え、飲み屋じゃなくてノミ屋? 混乱したが、いざとなったら“間違えましたー“と出てくればいい。
腹をくくって扉を開けた。
果たしてそこは、バーだった(よかった笑)。
屋号は「Tsujiya」。
若いマスターの祖父がかつでここで会計事務所をやっていて、それを改装したのだという(看板はそのままというわけ)。
「競馬中継? あぁ、明日菜七子ちゃんの大舞台だから」とマスター。
そう、ただの競馬ファン。
映像は90年代のJポップのミュージックビデオに切り替わった。
宇多田ヒカルの「Automatic」が流れ始めた。
おすすめはハイネケンの生ビール。
「うちはそれしか美味くないから」とマスター。
裏を返せば生ビールには絶対的な自信があるのだろう。
オススメとおりそれを頼んで一杯グビリ。
なるほど確かにうまい。
中身は一緒なはず。
樽の管理やサーバーの掃除が行き届いているのだろう。
ビールの旨さはそれにつきる。
ツマミは乾き物が中心。
「辛い豆、食べる?」
またマスターが唐突に聞いてきた。
暑苦しくも、冷たくもない、絶妙な距離感。
地元、雑司が谷生まれだという。
店に集う客は色々だ。
マスターと幼稚園が一緒だといいうお坊さん。
大塚で舞台の本番を終えたばかりという若手俳優。
社会人1年目の女の子。
ウンチク豊富な初老の紳士。
そこに見知らぬ一見客が闖入。
だけど、ごく自然に店の空気は流れている(と思う)。
中には入っていった瞬間、常連客が一斉にこちらを見やり、”俺たちのテリトリーに入ってきたやつは誰だ?”と警戒感顕な目で舐めるように見る店も。やがて警戒心をほどき、安全なやつだとわかると、今度は馴れ馴れしくこちらのプライベートに土足で踏み込んでくる。「もうお前も仲間だろ?」
ありがたいが、正直わずらわしく思う時もある。
いや、言っていることとやっていることが矛盾することはよくわかる。
だけど、ようは距離感なのだ。
この店の距離感は絶妙。
それはマスターの懐の深さなのか、神社の境内という神聖な場所柄なのか。
たぶんどちらもだろう。
その後はマスターおすすめのスナックとビストロをハシゴ。
どちらも良い距離感。
居心地の良い街、雑司が谷。
たぶんまた途中下車するだろう。
薄暗い鬼子母神をお参りして、その夜は終電前に家路についた。
(日刊ゲンダイで連載中の「ディープ酒場」を著者自らが大幅に改訂しました)