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歌えなかった日々に②
第4章: 試練の中で
琴美が結婚し、子どもを授かると、彼女の生活は一変した。新しい家族との日々は、忙しくも幸せなものだった。朝は子どものお弁当を作り、昼は仕事と育児を両立させ、夜は家族のために夕食を作り、笑顔で過ごす。そんな日常に、彼女は喜びを感じていた。愛する夫との生活も、幸せで満ち足りていた。しかし、その裏で次々と訪れる試練に、琴美の心は試されることとなった。
最初の試練は、育児の重責だった。子どもが小さいうちは、睡眠不足や疲れがたまる毎日。仕事を終えて家に帰ると、子どもの世話に追われ、気づけば自分の時間はほとんど無くなっていた。家事、育児、仕事に追われる中で、琴美は徐々に自分を犠牲にしていった。母親としての役割に全力を尽くしながらも、その中で自分を見失い、何か大切なものが欠けているように感じ始める。しかし、周りの期待や家族への責任感から、それを口にすることもできなかった。
次に訪れたのは、夫との関係の摩擦だった。忙しい日々の中で、夫婦としての時間はほとんど取れなくなり、心の距離が少しずつ広がっていった。コミュニケーションが足りなくなり、些細なことで衝突することが増えていった。お互いに理解し合おうと努力していたが、時折、愛情がすれ違う瞬間があった。琴美は、「家族を守らなければ」という責任感に押し潰されそうになり、心がどこかで疲れ切っていた。
そして、最もつらい試練が訪れたのは、母親の急病だった。ある日、突然母が倒れ、入院することになった。琴美はすぐに駆けつけ、看病に追われる日々が始まった。母の容体は急変し、医師からは余命宣告を受けることとなった。家族全員がその知らせに衝撃を受け、琴美はその悲しみに打ちひしがれながらも、母のそばで過ごす時間を大切にしようと必死になった。仕事も家庭も手が回らなくなり、琴美の心は深い痛みに満ちていた。母に対して感じていた感謝や愛情を言葉にすることなく、ただただ時間が過ぎていくのを見守るしかなかった。
その中で、琴美は再び歌への道を断念せざるを得なかった。母の看病が最優先となり、過去の自分が夢見ていたことが遠い記憶となり、心の中でその夢を封じ込めることにした。音楽から遠ざかることが、自分にとって唯一できることだと思い込み、その決断を繰り返し自分に言い聞かせた。家庭と母の世話に心を尽くし、歌に対する情熱を抑えることが唯一の選択肢だと思い込んでいた。
母が亡くなった後、琴美は深い悲しみに包まれ、心が空っぽになったような気がした。日常の雑事に追われる中で、空虚な気持ちがどんどん広がっていった。母との思い出は胸に残っていたが、それと同時に自分が一体何をしているのか分からなくなり、心が沈んでいった。過去に抱いていた夢や希望は、あまりにも遠く感じられた。日々の生活に追われるうちに、琴美はもう何も追い求める力を持っていないように思えた。
彼女は家事や育児に追われる毎日を送りながらも、どこかで何かが足りないと感じていた。それは、過去の自分が抱いていた夢、そして、歌いたいという気持ちだった。それがどうしても手の届かないもののように感じ、心の中でその欲望を押し込めることに必死だった。しかし、その空虚感はどこかで膨らんでいき、琴美は自分を見失いそうになっていた。
第5章: 懐かしいメロディ
ある日の午後、琴美は家の整理をしていると、押入れの隅に古びた箱を見つけた。その中には、何枚ものレコードが雑然と重ねられていた。箱を開けると、どこか懐かしい香りが漂ってきた。レコードの表面には埃が積もっていたが、琴美はそのひとつを手に取り、ターンテーブルにセットした。針がレコードに触れ、ゆっくりとメロディが流れ始める。
その瞬間、琴美の胸に何とも言えない感情が込み上げてきた。レコードから流れる音楽は、彼女の幼少期を思い起こさせる懐かしいメロディだった。子ども時代、家でよく母と一緒に聴いた歌、父がレコードをかけながら踊っていた時のことが、ふっと浮かんできた。音楽が流れるたびに、その頃の笑顔や温かな空気が蘇るようだった。
琴美はその場に座り込んで、音楽に身を任せた。目を閉じ、メロディに耳を傾けていると、涙が自然に溢れた。過去の自分が音楽と共に生きていたことを思い出すと、胸が熱くなり、同時に長い間忘れていた感情が溢れ出した。彼女は涙をぬぐいながらも、心の奥で何かが動き始めるのを感じた。あの日々の情熱、歌への欲望、そしてそのすべてを忘れていた自分を取り戻すような感覚が蘇った。
その夜、琴美は眠れぬままベッドに横たわった。レコードの音楽が頭の中で繰り返し響いていた。彼女は自分の心の中にずっと隠していた願望に気づく。もう一度、歌を歌いたい。音楽を通じて自分を表現したいという気持ちが、心の中で爆発的に広がった。
しかし、現実はそう簡単ではなかった。家族がある、仕事がある、そして歳月が積み重なっている。琴美は、自分の歌の力を取り戻すにはどうすればいいのか、どこから始めればいいのか全く分からなかった。長い間歌から遠ざかっていたため、自分の声すら覚えていないような気がした。何を歌えばいいのかも分からなかった。ただただ、心の中に強く湧き上がった「歌いたい」という感情が、琴美を動かしていた。
それでも、彼女は心に決めた。過去の自分を取り戻したい、そしてもう一度歌いたいと。その思いが琴美を支え、彼女の中で何かが変わり始めた。以前のように、歌を生きる力にしたいという気持ちが再び強くなった。明確な道は見えなくても、少なくとも一歩を踏み出す勇気が湧いてきた。その一歩が、琴美を新たな世界へと導くのだと信じて。
第6章: 小さなライブハウス
琴美は、かつて夢見た大きなステージではなく、まずは小さなライブハウスで歌うことを選んだ。これが最初の一歩だと思ったからだ。大きな舞台に立つことを恐れたわけではなかった。しかし、ここで歌うことで、自分の歌声をもう一度取り戻し、少しずつ自信を取り戻すことができるのではないかと思ったのだ。小さな場所だからこそ、失敗しても再挑戦できると思った。そして何より、観客が目の前にいることで、彼らの反応を直に感じながら歌うことができることに魅力を感じた。
初めてのステージの日、琴美の胸は高鳴っていた。背中には冷たい汗が伝うのを感じ、手は震えた。リハーサルで立った時には何ともなかったのに、本番を前にすると、思いもよらない緊張が襲ってきた。小さなステージの上で、彼女はマイクを握り、息を深く吸い込んだ。観客の顔がぼんやりとしか見えなかった。店の中には、数人の常連客と、カジュアルな装いの人々がいるだけだったが、彼女にはその全員が注目しているように感じられた。
「大丈夫、やるしかない」自分に言い聞かせるように心の中でつぶやき、琴美は一歩を踏み出した。最初の音が響いた瞬間、心の中で何かが弾けたように感じた。歌詞を口にする度に、過去の苦しみや喜びが一つずつ思い出され、それらの感情が歌に込められていくのを感じた。歌詞の一言一言が自分の心をつなぎ合わせ、長い間閉じ込めていた思いを解き放ってくれるようだった。
歌うことで、琴美は少しずつ自分を取り戻していった。観客は少ないものの、彼女が歌うたびに、会場の空気が少しずつ変わっていくのが感じられた。最初は静かで、誰もがお互いに話しながら音楽を楽しむような空気だったが、琴美の歌声が届くうちに、次第にその場の全員が彼女の歌に耳を傾けているのを感じた。琴美の声が、少しずつ心に染み込んでいくような、不思議な感覚だった。
歌が終わった後、誰かが拍手をしてくれた。最初はその拍手が本当に自分に向けられているのか確かめるように思えたが、次第に温かい拍手に包まれていることに気づいた。その拍手の中には、ただの礼儀ではない、琴美の歌が伝わった証が感じられた。思わず涙が込み上げてきた。
次のステージ、次々と続けていくうちに、常連客の間で琴美の歌声が評判になった。毎回ライブが終わると、誰かが「次も聞きたい」と言ってくれたり、「あなたの歌声が心に響く」と言われることが増えていった。最初は自分が何をしているのか分からなかったが、今、琴美は確信を持っていた。歌を歌うということが、単にメロディを紡ぐことではなく、自分の人生そのものであることに気づいたのだ。
琴美は、自分の歌声がどこかで誰かの心に触れている、そのことに初めて気づき、その感動がどんどん大きくなっていった。「自分は本当に歌が好きなんだ」と、心から実感した瞬間だった。それは、彼女がずっと追い求めてきた歌の力そのものであり、歌うことでしか伝えられない感情がそこにあった。
その夜、ライブハウスを後にする時、琴美はただのステージに立った一人の女性ではなく、心から自分の歌を歌うことに誇りを持つ歌い手として、次のステージへと踏み出す決意を固めた。
第7章: 歌えなかった日々に
琴美の歌声は、次第に周囲に広がっていった。最初は小さなライブハウスで歌っていた彼女だが、次第にその歌声は、常連客だけでなく、初めて訪れる人々にも届くようになった。ライブに来てくれる人々の中には、彼女の歌声を心から共感してくれる人が増えていった。そして、琴美は初めて、歌を通じて他人の心に触れることができる喜びを実感した。それは、ただ歌っているだけでは得られない、深い満足感だった。
大きな舞台での華やかな成功を求めることはもうなかった。彼女は今、歌うことそのものに満足し、歌うことで自分を表現し、聴く人々と繋がることができることが何よりの幸せだと感じるようになった。歌に込める感情は、過去の苦しみや喜びを含んだものだったが、それらすべてが今の琴美を形作る大切な要素となっていた。
ある夜、ライブハウスで歌い終わった後、琴美がステージを降りると、常連客の一人が近づいてきた。その男性は、年齢も経歴も様々な人生を歩んできたような顔をしていたが、その目には温かい光が宿っていた。
「あなたの歌、心に響いたよ。今までずっと歌いたかったんだね。」
その言葉が琴美の胸に深く突き刺さった。まるで彼が言った言葉が、琴美の心の中に閉じ込めていた長年の思いを、優しく解き放つかのようだった。涙がこぼれそうになり、琴美は急いでその手で顔を押さえた。その瞬間、何もかもが胸の中で溢れ出すような感覚があった。今まで積み重ねてきた努力、挫折、そして再び立ち上がった自分に対する誇りと感謝の気持ちが一気に押し寄せてきた。
「歌えなかった日々も、すべてが今の私を作った。」琴美は心の中でそうつぶやきながら、また一歩踏み出す決意を固めた。その言葉は、今の自分がどんなに苦しく、どんなに遠回りをしてきたとしても、すべての経験が無駄ではなかったという強い確信に満ちていた。そして、どんなに過去が辛かったとしても、それがあったからこそ今の自分がいると感じることができた。
次の日、琴美はライブハウスのステージで新たな歌を歌い始めた。その歌は、まるで彼女自身の人生を物語るように、苦しみ、喜び、涙、そして何よりも再生の力を込めた歌だった。歌の中で、琴美は過去の自分と向き合わせ、今の自分を受け入れることができた。それは単なる歌ではなく、人生そのものであり、聴く人々の心に深く刻まれていった。
そして、琴美は気づいた。歌を歌うことで、人々に届けることができるのは、音楽だけではない。歌の中に込めた感情や経験が、聴く人々に共鳴し、彼らの心を動かす。それこそが、歌の力であり、彼女が音楽を通じて伝えたかったことだった。
彼女の歌は、過去の自分を乗り越え、今、まさに生きている証だった。そして、聴く人々の心に響き続け、彼女自身の人生を、そして聴く人々の人生をも変える力を持っていた。琴美の歌声は、ただのメロディではなく、人生の中で失われたものを取り戻すための光となり、彼女とその歌を聴く人々を繋げていった。
――完――