子どもに興味のない私が母性のようなものに目覚めるまで(出産体験記)
2020年3月、緊急帝王切開で長女を出産しました。
この記事は、子どもに興味がなく、自分でも子どもを持ちたいとは思っていなかった私が、娘に対して初めて母性を感じた瞬間と、その衝撃を忘れないように書き残すものです。
内心をそのまま書いており、特に前半で鬱屈した文が続きます。不快な表現がありましたら申し訳ありません。
子どもをかわいいと思ったことがない
世の中の子どもを、かわいいと思ったことがない。
「嫌い」とまでは言わないけれど、あまり好きではない。元気に走り回る姿を見ても、全く心をくすぐられない。泣いている姿なんてもってのほか。
知り合いの子どもには、周りに合わせてなんとなく「かわいいね~」と言うけれど、内心「面倒だな」と思っている。
とにかく興味がない。
トラブルに巻き込まれたくない、なるべく関わりたくない。
それは出産を経た今でもあまり変わっていない。
そんな私が子どもを産んだのは、ほとんど保身のためだった。
妊娠まで
夫と知り合って13年、結婚6年目で夫婦の仲もよい。
一時期私が抗うつ剤のお世話になっていたり、その後転職したりして、しばらく避妊を続けていたが、状況が落ち着くと子どものことを考え始めた。
子どもをかわいいと思わないし、自分の遺伝子を残すことにも興味がない。痛いのは怖いし、育児の時間・経済的コストを考えてもメリットを感じられなかった。
それに私自身、育ててもらったことへの感謝はあっても、生まれてきてよかったと言い切れなかった。
失敗作の人間なのに、誤ってずるずると生きながらえているのではないか。そんな居心地の悪さが、いつも心のどこかにこびりついている。
自分の血を引いた子どもを生み出すことが、ポジティブなことだと、どうしても思えなかった。ましてや育てるなんて、「私のような人間がまともにできるのか」という不安しかなかった。
ただ、夫はとても良い人で、彼が子孫を残すのはよいことだと思った。夫やその実家の希望を裏切るのはつらかった。
夫婦仲も良好なこの状況で、彼が子どもを望むなら、やはり私が生むしかないだろう。
私と、夫や義両親。両方を天秤にかけると、自分の感じている抵抗感はただの努力や忍耐の不足に思えた。
絶対に嫌だとは、言えなかった。
そもそも、望めば必ず子どもを持てるとも限らない。「トライした結果子どもができたなら、きっと神様が『生め』と言っているのだろう」と考えた。
なかば諦めのような形で、一方的に子どもへ人生を与えてしまう罪と、それをいつの日か責められる覚悟を決めた気がする。
せめてストレスを抱え込むリスクを減らすために、一人で暮らす実母の近くへ引っ越し、助けを求められるようにした。
妊娠中
やがておなかが大きくなり始めたものの、臨月まではほとんど生活に変わりはなかった。
朝6時半に家を出て職場へ向かい、夜10時半に帰宅する。つわりもなく、食べ物の嗜好にも一切変化はなく、酒とコーヒーを控えた以外はそれまで通り。
女性は長い妊娠期間を経て、おなかの子どもへの愛情を育み、母親になっていくと聞くけれど、私にはまったく当てはまらなかった。
自分の中で何かが大きくなっている、という奇妙な違和感だけがある。不思議と、恐怖はなかった。少しずつ変化するから麻痺しているのか、それともホルモンのせいで感覚を狂わされているのか。そんなことを考えていた。
妊婦健診でエコーを見るたび、少しずつ人間らしくなっていくのがわかる。やがておなかをポコポコと蹴るようになった。本当に育っているんだな、とは思ったが、感動や喜びはなかった。ただトラブルは避けたかったので、「問題ないですよ」という先生の言葉に毎回ほっとしたように思う。
産休に入り、臨月になると歩くのもおっくうになった。頻繁に鼻血が出る。貧血もあり、夜は動悸と息苦しさで眠るのも苦しい。
ここまで長い時間をかけて、こんな状態にまでなって、万が一何かあったらやりきれない。そんな損得勘定から初めて「無事に子どもが生まれること」を本気で願うようになった。
でも、本当は怖くて仕方がなかった。
どれだけの苦痛が待っているのか、無事に終えられるのか。「やっと子どもと会えるよ」と言われても、そもそも自ら望んでいないのに、楽しみだと思えない。育児が始まることへのプレッシャーだけがあった。
いびつにせり出したおなかを抱えて、臨月の苦痛が終わることだけを励みに日々を過ごす。ほとんど「大きなタスクに義務感で立ち向かう」という心境だった。
出産
予定日より2週間ほど早い土曜日の早朝、数分おきに訪れる下腹部痛で目が覚めた。まさかこれが陣痛か、と背筋が冷えた。
寝ている夫の脇からベッドを抜け出し、痛みをこらえてシャワーを浴びた。服を着てトイレに行くと、透明な液体が流れ出ていることに気付いた。
産院へ連絡をすると、すぐに来院するよう指示を受けた。破水していた。
分娩台へ上がると、陣痛はさらに強くなる。助産師さんの指示どおり、波がくるたび必死に息を吐く。付き添いの夫が腰を押してくれる。
いつ終わるのか。早く楽になりたい。それだけをひたすら考えていた。
それなのに、夕方になると陣痛の間隔は縮まるどころか遠のき始めた。やむなく先生が陣痛促進剤の準備を始めようとしたとき、陣痛の波に合わせて胎児の心拍モニターからブザー音が鳴った。
先生の目の色が変わった。モニターをじっと見て、エコーで何かを確認したのち、このようなことを言ったと思う。
「羊水がほとんど流れ出て、子宮の収縮が赤ちゃんに直接伝わる状態になって、赤ちゃんに負担がかかっているようです。
陣痛促進剤はやめて、帝王切開に切り替えましょう」
うまく力の入らない右手で何とか同意書に署名をすると、すぐさま手術室へ運ばれた。急ピッチで準備が進み、麻酔が打たれる。「大丈夫ですよ」という励ましの声と、不安そうな夫の顔に、ぼんやりと「またうまくできなかったのか」と思った。
あっという間に産声が聞こえてきた。
なんだかガラガラの、思ったより低い声だな、と思った。
助産師さんが、麻酔で動けない私の顔のそばへ生まれたばかりの子どもを持ってきて、鼻と鼻をこつんと合わせてくれた。
「元気な女の子ですよ」
子どもの肌は赤く、髪は濡れていて、自分や夫に似ているのかいないのかもよくわからない。
ただ、やっと終わった、疲れたという脱力感と、もう逃げられない「それ」がついに目の前に現れてしまった、という重苦しい気持ちの両方があった。
入院中 思い出し涙
いろいろな管に繋がれたまま夢うつつで夜を明かし、次の日になってもまだ下半身を動かすことができなかった。腹部だけでなく頭も痛かった。個室へ連れてこられた子どもは、真っ白なタオルに包まれて眠っている。
特にかわいいとも感じない。ただ、これが少し前まで自分のおなかの中にいたのかと、不思議な感じがした。
もうひとつ寝ると、やっと歩けるようになった。
子どもにふにゃふにゃと泣かれるたび、教わったばかりのおむつ替え、ミルク作りや授乳を必死にこなす。哺乳瓶をくわえさせると自動的にミルクを吸い始める様子を見て、「これが吸てつ反射か。ハエを見たカエルが自動的に一連の捕食行動をとるのと同じかな。どちらも反射だし」なんて思う。
その夜、子どもが新生児室に引き上げて、私は一人になった。弱弱しい泣き声や寝顔、腕に抱えたときの小さくてしっとりとした体温、授乳後のげっぷで見せる変な顔なんかが、余韻として残っている。胸の中がザワザワする。
あんなにも無防備に命を委ねてくる、あの生き物は一体なんだろう。
落としたらつぶれそうな、あの温かく、小さくて柔らかな生き物は。
ふと、緊急帝王切開が決まったときの、あの慌ただしい緊張感が脳裏に蘇り、背筋が凍った。
周回遅れの恐怖と安堵が一気に押し寄せた。そして子どもの寝顔が再度思い出されて、胸がつぶれるような思いがした。
あの子が無事で本当によかった。
あの無防備な寝顔が失われなくて本当によかった。
急に涙がぼろぼろと溢れてきた。
あの子を守っていかなければ、と強く思った。
このときが、子どもを好きになれない私が初めて、母性めいたものを抱いた瞬間だったように思う。
退院~現在
産後の1ヶ月、近距離別居の母の家へお世話になった。
この子がかわいいのか、まだよくわからなかったけれど、母が「かわいい、かわいい」と嬉しそうにおむつを替える様子を見ているうちに、つられてかわいいと思うようになってきた。
休日には夫も一緒に子どもの世話をした。これまで聞いたこともない、ゆるみ切った声で話しかけるので、こちらも頬がゆるんでしまった。
やがて子どもにも眉毛が生えて、まつ毛の長さも目立つようになり、よく笑顔を見せるようになった。泣き声にもバリエーションが生まれて、コミュニケーションのようなものが成立し始めた。
私も子どものいる生活に慣れてきて、今ではかわいくて仕方がなくて、毎日「あらあなた、今日もかわいいわね」と話しかける。
子どもはキャーと声を出して笑ってくれる。
産後4か月を迎えた今、以前は想像もできなかった穏やかな気持ちで、泣いたり笑ったりする子どもと楽しく過ごしている。
受け止められて、受け止めて
子どもと過ごすうちに、私も自分自身が生まれてきたことを肯定的に感じられるようになった。
きっと、私が子どもを受け止めているというより、子どもが親の私を肯定してくれているのだと思う。
私がどんなに不出来な人間であっても、うまくお世話ができなくても、子どもは私を愛するだろう。母親だから。それは、まぎれもなく無償の愛だと思う。
それにあぐらをかき、子どもを抑圧して支配することがいかに醜悪なことか。その暗い欲望に呑まれないようにしよう、と母親初心者ながら決意した。
なにができても、できなくてもいいから、元気に幸せに生きていてほしい。
一方的にこの世界に生み出されて、それなのに無邪気に笑顔を向けてくるこの子を、できるだけ幸せにしてあげたい。
生まれたことや今生きていることを、当然にポジティブなものとして受け止めてほしい、と強く思う。
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これから想像もつかない苦労がたくさん待っていると思うけれど、あのときの気持ちを忘れないように、思い出せる限りで書いてみました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。