ひらがなで書かれたフルネーム
あれにもこれにも、名前を書く。
保育園に通い始めた娘の持ち物には、すべて名前を書く必要がある。着ていく服、くつ下、着替えももちろん、それを入れている袋にも。
紙おむつには字が書きづらいので、スタンプを使っている。
すべてスタンプで記名してしまってもよいけれど、素材や形状が書きづらいものでなければ手書きにしておこうかな、と思っている。
保育園に通い始める数日前、そろそろ名前書きを始めなければと、娘のTシャツ数枚を取り出した。裏返すと洗濯タグに記名欄があって「さすが子ども服、ありがたい」なんて思う。
そして娘の名前をひらがなで書いたとき、はっとした。
私が手にしてきたいろいろなものに手書きで記されていた、かつての私のフルネーム。
ひらがな6文字の、私の名前。
その記憶が一気に脳裏を駆け巡った。
幼いころの私は、母の字で書かれたその6文字に囲まれていた。
その字を見るといつも、なんだかほっとして、優しい気持ちになった。
それは当時の私が母に対して抱いていた安心感そのものだった。
成長するにしたがって自分で名前を書くようになり、やがていちいち記名をしなくなり。気付けば母の手書きのひらがな6文字がどこに残っているのか、そもそも残っているのかどうかさえわからない。
それに気が付くと急に、子どものころの、母を恋しく思う気持ちが蘇ってきた。そしてどこにあるかもわからない、母が記名してくれたなにかを探したい衝動に駆られた。
でも「あれに名前が書いてあった気がする」というものが何一つ思い出せない。
そんな状態で探すなんて、途方もないことに思えた。
その途方もなさが、母といるだけで安心を得られた日々からとても遠いところまで来てしまったことの表れに思えて、なんだか切ない気持ちになってしまった。
娘の服の一枚一枚に、せっせと手書きで名前を書いていく。
非効率だと思うし、そこに手間をかけることが愛情の証だとも思わない。ただ、母が書いてくれた私の名前や、そこにあった無条件にほっとする気持ち、もう昔のものになってしまったそれらを懐かしむ想いがそうさせるのかもしれない。
私は娘に、あんな安心感を与えてあげられるのだろうか。
ひらがなで書いた娘の名前を見ながら、そんなことを思う。
ふと、母の手元にあるはずの私の母子手帳を思い出した。
それが入っている、幼い私の使っていた小さなリュックにも、私の名前が書いてあったはず。
近いうちに、母と、母の書いてくれた私の名前に会いに行こう。そう決めた。