夢のなかで責任がはじまる
デルモア・シュワルツ著『夢のなかで責任がはじまる』という本を買った。
つかみどころのない不思議なタイトルと、ライトブルーの背景に憂鬱そうな青年が浮かび上がる表紙に惹かれて、本屋でジャケ買いをした。
シュワルツは1913年に生まれで、表題の短編小説で一躍有名になったアメリカ人作家だ。
日本ではシュワルツの作品はアンソロジーの一部として邦訳されてきただけで、十分に紹介されてこなかった。
本作は、シュワルツの著作を邦訳してまとめた初めての作品集である。
本作には、8つの短編と、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのルーリードによる序文(昔シュワルツが講師をしていた大学で講義を受けていたそうだ)、訳者のあとがきが含まれている。
夢のなかで責任がはじまる
アメリカ! アメリカ!
この世界は結婚式
大晦日
卒業式のスピーチ
陸上競技会
生きる意味は子どもにあり
スクリーノ
これ以降は、表題作『夢のなかで責任がはじまる』の内容と感想について紹介する。
あらすじ
「僕」が映画館で1本のサイレント映画を見る場面からはじまる。
スクリーンには、若き日の僕の「父」が「母」を訪ねるためにブルックリンの静かな通りを歩いている様子が映し出されている。
父は母にプロポーズをするか迷っている様子で、母の家を訪ね、デートに連れ出す。
それを映画館で見ている僕は、そわそわと落ち着きがなく、感傷的になり、突然泣き出してしまう。
映画館にはほかにもお客さんがいる。
泣いている僕をみて、静かにしないと追い出されるぞと、隣に座っている老婦人に注意をされる。
しばらくすると、父が母にプロポーズをして、母が結婚を承諾する。
僕は、映画の中で起こることにいちいち反応して、わめいたり泣いたり怒ったりする。
最後に、僕は案内係に映画館から追い出されて、夢から目覚めるところで話が終わる。
「親ガチャ」という言葉、あなたは好きですか?
この作品の重要な要素として、「僕は映画の中の出来事には何の影響も与えることができない」という点がある。
例えば、父がプロポーズをし、母が承諾するシーンで、僕は次のように叫ぶ。
やめたほうがいい! ふたりとも、今ならまだやめられる。そんなことをしたって何もいいことなんか起きないんだ。ただ後悔や憎しみや恥辱、それからぞっとするような性格のふたりの子どもが生まれるだけなんだから
この場面、プロポーズを止める理由が、自虐的でかわいげがあって可笑しい。
結末を知らないほかの客からしたら、ただの映画のワンシーンだ。
これほど取り乱す僕のことを、大げさに思うのかもしれない。
同じ映画を見ているはずなのに、僕と老婦人で全く違う反応をするところも面白い。
僕がどれだけ泣き叫んでも、父や母の決断を変えることはできない。
結婚をやめさせることもできないし、自分が生まれることを止めることもできない。
映画は、決定的な事項として、目の前のスクリーンに映し出されるのみなのだ。
では僕は、この映画の続きとして待っている、悲しみや羞恥にまみれた人生を、理不尽にも引き受けて、悲惨な人生を送り続けなければならないのだろうか?
わたしは、そうは思わない。
昨今、「親ガチャ」という言葉が生まれ、生まれた家庭環境の違いがその後の人生を決定づけているような風潮がある。
わたしはこの言葉が好きじゃない。
人生はどんなことが起こるか分からないからだ。
親ガチャという言葉に気を取られ、諦観にかられれば、そのチャンスを見逃してしまうのでは、と考えている。
わたしたちが負っている「責任」は、どんなものだろう?
「親ガチャ」という言葉に対抗し、諦観に負けず自分の人生を生きるためには、タイトルの中で強烈な違和感をもたらしている「責任」という言葉がヒントになるかもしれないと考えた。
日本では「責任を取って(職務や組織を)やめる」とか、「大人の責任を果たせ」とか、何かを縛ったり罰したりするときに「責任」という言葉が多く使われる。
責任という言葉には、マイナスな印象が重くのしかかっているように思う。
しかし、日本における「責任」のように処罰の意味をタイトルに込めることに、わたしは違和感を覚える。
再三書いているが、自分が変えられなかったことに対して、自分が罰を受けるのは理不尽だと思うからだ。
では、映画館にいる僕やわたしたちが負う「責任」とはどんなものなんだろう?
日本語の「責任」に対応する英単語「responsibility」の語源はラテン語の「respondere(応答する)」だそうだ。
平たく日本語に直そうとすれば、「反応する能力」とも訳せるだろう。
「責任」を従来的な「反応する能力」という意味として立ち返った場合、責任が生じる物事とは自分が反応することで何か影響を与えることができなければならないのではないだろうか。
それは、夢のなかのスクリーンではなく、現実の自分についてだ。
自分の好きなように行動する。そして、その結果を自分が受け取る。
うまくいったとしても、だめだったとしても、初めから決まっていることに従う人生よりは、無力感や諦観に苦しむことがなくなるのではないだろうか。
これが本来の意味での「責任」なんだと、わたしは思う。
それを象徴する場面が、僕は夢のなかの映画館を追い出され、目が覚めた時、さわやかな朝がはじまるシーンだ。
目が覚めると身を切るように寒い冬の朝で、二十一歳の誕生日だった。唇に雪をつけた窓枠が輝いている。朝はもうはじまっていた。
「生まれ」や「親」、「過去の良かった時代」を呪うことは、映画館で泣き叫んでいるようなものだ。
わたしたちの責任は、光輝く朝として、すでに始まっている。
多くの人は、まだ夢のなかの映画館にいて、気づいていないのかもしれないが。