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「ママ」と呼ばれたかった「お母様」

 僕は、幼少期から成人した今でもずっと両親を「お父様」「お母様」と呼ぶように、そして必ず敬語で話すように教育された。

 マナーは全て雇われた教育係に習った。周りが流行りのヒーローやヒロインアニメを観る中、習い事の詰め込みで、そんな自由もなかった。当然、幼稚園や小学校ではクラスメイトと流行りの話題には馴染めず浮いていた。

 両性具有でありながら、家柄の為に僕は「長男」となった。幼い頃に性別を合わせる手術だけは、お母様が必死にお父様を説得し止めさせたのだと大人になってから聞いた。

 僕が長男として生きることに、家事係も、後に産まれた兄弟達も皆従った。弟も妹も僕を「お兄様」と呼ぶ、僕は弟妹を「○○さん」と呼んだ。

 僕達が皆成人した頃には、年齢的にも互いの呼び方も多少不自然では無くなったが、両親への呼び方は変わらなかった。


 大人になってから、お母様と話す時間が増えた。マザコンと言われそうだが、雑談ばかりだが楽しそうに話すお母様を眺めていると幸せだった。

 それまでは食事やパーティ以外で長く会うことも無かったのだ。同じ家に住んでいるのに、家族のはずなのに、弟妹達も含めて互いの距離はとても遠かった。

 そんな雑談の中で、お母様が「ママと呼ばれたかった。」と僕にだけ話してくれた日を覚えている。

 穏やかで美しい人だ。一瞬だけ、そんなお母様の寂しそうな、しかし普段通りの柔らかな笑みで話してくれた。…もしかしたら、ポツりと溢れた独り言かもしれない。

 それが子を持つ母としての憧れ、むしろ一般的な事だと後に知って僕は悲しかった。当然だった、嫁ぎ子供を産んでから何十年もお母様は、子供達から「ママ」と呼ばれなかったのだ。申し訳なさで胸が苦しかった。  


 お父様は家柄、そして自分の立場を一番に考える人だ。家族はアクセサリーなのだ。家や他所で開かれるパーティには、両親と御飾りの僕が常に一緒だった。お母様も同様に素晴らしい夫人を演じた。…いや、多分素のままで充分お母様は良かったのだと思う。沢山の人と話していた、外国人にも流暢な英語で会話していた。

 パーティ(会食とテーブルゲームとかビリヤードとかする程度)を僕は当時楽しんでいた。両親とのお出掛け、美味しい料理、他人から褒められる自分、笑顔の両親。それら全てお父様の為だと言う事も後に知った。哀しいと思ったのは一瞬だった、そう言う人だと知っていたから。


 完璧な家族は、ただの役者の寄せ集めだったのかもしれない。そんな中でお母様や弟妹は生きているのだ。僕は実家から逃げ出した、まだ「ママ」とも呼べずに。
 


…今日のお話は、ここまで。


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