オースティンとブロンテ、どちらがお好き?
「ジェーン・オースティンとシャーロット・ブロンテ、どちらがお好き?」
そうたずねられたら私は迷わず、「オースティン!」と答える。
オースティンとブロンテの作品、どちらを先に読んだか、というと、ブロンテのほうである。
新潮文庫の「ジェーン・エア」を読んだのは、たしか、十四、五歳くらいの頃だったと思う。
私は、この小説に夢中になった。
伯母の家での虐待、そして、寄宿学校の過酷な環境の中でも誇りを失わないジェーンのことが、大好きになった。
とくに、彼女が意地悪な伯母のリード夫人に対して敢然と主張するシーンには、かなり強烈な印象を受けた。
このあとジェーンは、憎らしい伯母に向かって、「わたしは、世界であなたが一番嫌いです」とはっきりと言うのである。
私は、ジェーンの勇気に感動してしまった。
しかし、二十歳になった頃だろうか、私は、この自分の「文学少女趣味」が嫌になって、ジェーン・エアの世界から遠ざかるようになってしまった。
ここでやっと、オースティンの「エマ」と出会うことになる。
それまで、私にとって「エマ」は、「本屋の、中公文庫の棚で見かける、やたらと分厚い本」でしかなかったのだが。
「エマ」を手にとったとき、私は、読了するのに数日かかるだろう、と思っていた。
しかし、そうはならなかった。
この冒頭の文章を読んだ時点で、「エマ」という作品に対しての好みがはっきりと分かれそうだ。
私は、そこで本を閉じることなく、そのまま読み続けた、ということだ。
・・・このように、「ある一定の年齢以上にならなければそのおもしろさがわかりにくい小説」というものが、存在するのである。
この、深刻な悩みを何も持っていないヒロイン、エマの性格をよくあらわしている箇所を引用してみる。
エマが、友人のハリエットと牧師のエルトンをくっつけようとおせっかいをやいた結果、思わぬ方向へ行ってしまい、彼女は悩むのだが、その、翌朝・・・。
何も反省していない、エマ。
まるで、昨日と今日は連続した時間の上に存在していない、とでも言うように、ひょい、と、明るい世界へと移動して、けろりとしている。
あっぱれである。
私は、第四十二章のピクニックのシーンが大好きで、この章の風景描写などは、まるで、「エマ」という小説が持つ魅力そのものをあらわしているようだ。
各社からオースティンの翻訳が何冊も出ているが、「エマ」に関しては私は、阿部知二の翻訳が好きだ。
いささか古風なところが、いいと思う。
さて、ではもう一度、ブロンテの話をしよう。
ブロンテが嫌になった、というより、自分の文学少女趣味が嫌になっていったん、そこから離れた私だったが、その後どうなったか、というと、また、戻ってきたのである。
といっても、もちろん、今度は、前よりも大人になって。
やはり、「ジェーン・エア」は素晴らしい作品だし、貴重な少女時代の読書経験を、切り捨てることなどできない。
ゴシック小説には、ゴシック小説のおもしろさがあるのだ。
また、最近、毬矢まりえ・森山恵姉妹による、アーサー・ウェイリー版源氏物語の「らせん訳」を読むことで、源氏物語とブロンテの作品との類似性や共通点をあらためて確認することができ、ブロンテをあらたな視点で読み直そうという気持ちになることができた。
だから私は、冒頭の質問をされたら、オースティンとブロンテ、どちらも素晴らしい作家である、ということを冷静に受け止めつつ、「オースティンが好き!」と、答えているのである。