⑥(1)公立退職後と私立で復帰するまで
HSP気質の元教員(中・高英語)が11年間の教員生活を振り返っています。
前回は、二校目が笑ってしまうほど合わず、異動してたった1年であっさり退職、という話でした。トータル8年で、私の公務員人生は終わりました。
あの場所で働き続けていたら間違いなく体か心を壊していただろうと思いますので、退職後もまったく後悔はありませんでした。3月に入って、ああ、あと少し・・!と、同僚で同じく退職を決意していた先生とハイタッチしたのを覚えています。
(HSPは自分の状態にも敏感なので、倒れてしまうまで頑張ることはあまりないのかもしれません。無茶できないし、しないんですね。)
周りの反応はというと、先輩の先生には「えーもったいないじゃない。」事務の先生には「休職にするのはどう?産休取るのは?」←(笑)初任校の先生方には「何があったの?!もっと早く言ってくれたら力になれたのに・・」初任校の校長先生には「こんなことになって申し訳なかったね・・」と言われながら、辞めることにはまったく迷いはありませんでした。その時の心境としては「もう無理、死ぬ・・・」というよりは、「ここでは無理です、では!」というような、妙に冷静な頭だったように思います。
躊躇なく退職できたのは夫が働いていたことも大きく、反対もされなかったので助かりました。私が土日も休みなく働いていたのを見ていて(平日は時間がなかったので、週末にまとめて授業準備してました)、さすがにこれは無理では・・と夫も思っていたようです。
加えて、教員ならいつでも復帰できると言う算段もありました。必要なら産休補助など、何かしら働き口はあるだろうと。
もし家族に反対されたり、ここしか自分の働ける職場がない、という状況だったら退職を選べず心が死んだまま働くということになっていたかもしれません。それができる人もいますが(仕事=生活の糧と割り切るタイプ)、私は仕事や職場、働き方が合わないという状態をやり過ごすことができるタイプではありませんでした。(HSPは環境から受ける影響がとても大きいです)
自分が働かなくてもとりあえず当面はどうにかなる、という状態を確保しておくことは人生で一番大事な保険かもしれないですね。(日本もベーシックインカム導入されてほしい!)
あともう一つ退職をあと押ししたのが、元気だった義父の急逝でした。人生は必ず終わる、しかも突然かもしれないということを目の当たりにし、私は自分をふさわしい場所に連れてってやる義務があるという気持ちが自分の深いところから湧き上がってきました。
さて、離職後の変化ですが、まず息子が保育園を退園し、幼稚園に入学しました。環境への適応は早いほうだった息子は、ほどなく幼稚園に順応してくれました。どちらかというと私のほうが慣れるのに時間がかかりました。幼稚園、持ち物が複雑で多いんです。保護者が参加する行事も保育園と比べるとだいぶ多く、保護者同士の関わりも保育園よりずっと密!で、ランチ会に参加しては疲弊する、というようなこともしていました。不特定多数との浅い会話が苦手という、HSPの特徴をいかんなく発揮してしまいました。保育園のドライだけど絆もある保護者関係が恋しかったりしました。
そして大きな変化と言えば2人目を授かったことでした。冬に娘を出産し、2人育児がスタートしました。出産後しばらくはバタバタしましたが、半年経つ頃にはだいぶゆったりした、専業主婦の生活を謳歌できました。
生活に余白が生まれ、興味はあったけど手つかずだったことに着手するようになりました。まず、「断捨離」です。流行りに乗った形でしたが、これは本当にやってよかったことナンバーワン。ここから私の違う人生がスタートしたような気がしています。断捨離は、きちんと「なぜやるのか」「どうやるのか」を理解してやることが肝だと思います。闇雲に物を捨て始めても効果は薄いだろうなと。断捨離第一人者であるこんまりさんの本を読んだのですが、読み終わったあとは家の中がゴミだらけに見えました。新しい私の誕生です。この「自分自身の変化」が断捨離のベネフィットです。断捨離、試してみたけどイマイチだったという人は、ぜひぜひ断捨離の意味をきちんと勉強するのがおすすめです。本を読む時間を入れても、4,5日で新しい自分になれると思います。断捨離は、とどのつまり自分との対話なのですよね。
でも教員をやっていた時はこの4,5日さえ取れなかったです。人生を回すにはいかに余白が大切かということを痛感しました。
長くなりそうなのでこの辺で。まだ離職中の話と復職までの話続きます!