②『こんなに美しい月の夜を君は知らない』歌詞解説募集キャンペーン投稿録
これのその2。
(その1)
※当初、作成順に公開していた内容を『こんなに~』収録順に改めました。
制服のマネキン(乃木坂46)
『制服のマネキン』と言えば、『君の名は希望』に並ぶ乃木坂46の代表曲です。ライブでのパフォーマンスがその大きな要因と言えると思いますが、楽曲の世界観もそれにふさわしいシリアスなものです。
『君の名は希望』を後に控えているからか、「フレンチポップ路線」3作へのブレイクスルー的な役割を持つからか、際立ってギラギラとした雰囲気で終始しています。
そこには〈君〉と〈僕〉の〈恋〉の様子が描かれていますが、よく読んでみると、どこか危ういようにも感じます。
ここに描かれているのは、もしかして〈僕〉だけの一方的な想いじゃないか?と思うのです。
1st『ぐるぐるカーテン』から『君の名は希望』までのシングル曲は、一つの連続したストーリーのようだと常々感じていました。
起承転結の「転」とまでは言いませんが、1st~5thまでの流れの中で大きく波立ったのが4thである『制服のマネキン』のタイミングなのです。
『ぐるぐるカーテン』には〈彼女と私〉の女性目線を主に描かれています。〈男子禁制〉とあるように、「僕」に当たる存在には〈カーテンの中〉で交わされる中身は明かされません。
しかし〈女の子〉と「僕」との距離感は示されているように思います。
これらの言葉は〈男の子たち〉に向けて発されていると受け取れるものです。〈彼女と私〉の〈2人きりの世界〉だけが描かれているようで、むしろそこに介入できない〈男の子〉の存在が浮き彫りになっていると言えます。
そんな関わりの薄い距離感を経て、2nd『おいでシャンプー』はその距離がグッと近付いています。
〈何を話してるのか〉想像するだけだった頃と比べて、軽口を叩いてふざけ合えるくらいの距離感が描かれています。
プール掃除という初夏のシチュエーションを通して、〈僕〉の内にあるリビドーも描かれつつ、〈君〉と〈僕〉の世界が構築され始めています。
3rd『走れ!Bicycle』はその想いを自覚し、更に距離を詰めようとしているようです。
しかしながら、その行動はどこか性急なようにも思えます。〈僕〉の認識を追ってみると、「それ、本当に両想い? 僕"も"って言ってるけど大丈夫?」と言いたくなるような様子に見えてしまいます。
そんな〈僕〉の醸す不確かさが、『制服のマネキン』にも地続きで存在しているように思うのです。『走れ!Bicycle』からしてそうですが、〈僕〉の言動や考えが描かれるのみで、〈君〉の様子が全く読み取れないのです。
『制服のマネキン』の〈僕〉は以下のように語ります。
どうにも、相手の意志を考慮せず気持ちをぶつけているように思えてなりません。〈感情を隠したら制服を着たマネキンだ〉とは言っていますが、隠しているのか、そもそも無いのか、定かではありません。
もちろん、〈僕〉が本当に独り相撲している状態なのか否かは、歌詞からは断定出来ません。しかし、『ぐるぐるカーテン』でも〈男の子たち〉は遠巻きに想像を膨らましていましたが、そんな「都合よい想像」がここまで根付いているように思えてならないのです。
『制服のマネキン』の歌詞だけでは、その結末は分かりません。しかしそのヒントとして、続く『君の名は希望』で以下のように謳われています。
恋が成就したかしなかったかについては、これが答えなように思います。
一方で、恋が叶わなくとも〈僕〉がこのような境地に辿り着いたとも言えます。
『制服のマネキン』では一方的に情熱が沸き立ってしまいましたが、それが報われなくても、〈君〉という存在に巡り合えたこと、想いを抱けたこと自体こそが尊いと〈僕〉が理解出来たのだと信じたい次第です。
二人セゾン(欅坂46)
『二人セゾン』は、欅坂46のラインナップの中でも屈指の美しさと儚さを持った楽曲です。
それは「他の曲では足りない」というより「他の曲はそもそも路線が違う」と表現するのが正しいかと思います(『不協和音』以降特にそうでしょう)。
そこに描かれているのは、〈僕〉と〈君〉の〈恋〉と〈別れ〉の様子です。
とは言え、この『二人セゾン』は単なる恋愛ソングではありません。出会いと〈別れ〉を季節の巡りに準えつつ、〈君〉の存在によって〈僕〉が変化したこと自体を大きなテーマとしているように思います。
それはまるで乃木坂46の『君の名は希望』の世界観のようです。元々の〈僕〉は周囲に自ら壁を作り、孤立していました。そこに突如現れたのが〈君〉という存在でした。
そんな存在である〈君〉のことを〈セゾン〉=「季節」と言い表していますが、恋をしたこと、恋人が出来たことを「春が来た」と表現するようにここで用いられています。
これは恋愛に限った例えではありません。孤独な〈僕〉の元に訪れた「変化」そのものを指しています。〈君〉とは、それをもたらした象徴のような存在なのです。
事実、〈生きるとは変わること〉とあるように、この楽曲において〈僕〉は、〈君〉と2人でナントカカントカではなく、自分が実感した「変化」やその尊さ、重要さを繰り返し謳っています。
その「変化」には他者の存在が必要だとも〈僕〉は理解します。
不意に差し込んだ〈光〉が新たな「季節」をもたらすとして、自分の元に現れた存在を比喩を用いて肯定するのです。同時に、そうした他者の差し伸べた手を取ることの大事さをも謳っています。
この物語における〈僕〉と〈君〉の顛末は〈秋冬で去ってゆく〉〈別れ際〉からおおよそ想像することが出来ますが、逆にそうした結末を迎えたとしても、〈僕〉の内には希望が息づいているのです。
〈君〉と出会えたことで得た、新たな考え方を何より大切に抱いています。「変化」の尊さ、あるいは「変化」がいつか訪れた時に想い馳せる想像力、それを〈僕〉は噛み締めるように振り返ります。
〈花の無い桜〉をモチーフに、いずれ迎える未来を思い描くラインが非常に美しいです。そしてある意味、厳しくもあります。未来を想像し、その先に待っている変化を思い描く力は、誰にとっても必要だと言うのです。
しかし、それがまた生きる力でもあるのです。
上で名前を挙げた『君の名は希望』は、まさに〈僕〉が〈君〉によってもたらされた自身の変化を謳ったものでした。『二人セゾン』から受け取れるメッセージも、非常に近いように思います。
孤独に身を置いて安心していた〈僕〉は、他者の存在、他者がいる世界を愛するようになりました。そして〈恋〉が叶わずとも、関わり合いによって与えられたものが〈僕〉に変わらず働きかけています。
〈君〉との恋愛がどうなったかではなく、それによる〈僕〉の「変化」が、最後の一言でも大きく取り上げられます。
「変化」をもたらす存在である〈君〉と同じように、〈僕〉自身のことも〈セゾン〉と例えられる境地に最後到達しているのです。
そんな「新感覚」こそが〈僕〉の得たものです。
よくよく読めば、〈僕〉が内心抱いている〈君〉への苦い思いも垣間見えますが、それも含めて彼にとってかけがえのない体験であると言えるようにも思います。
曲調にも現れた切ないストーリーが描かれましたが、その実、この出会いと経験を通して主人公たる〈僕〉には大切な「変化」が訪れました。
だからこそ〈僕〉の言葉は説得力を持つのです。〈生きるとは変わること〉と、生の実感を心から伝えてくれるのが、この楽曲の何よりのメッセージ名ように思います。
猫の名前(欅坂46)
『猫の名前』は、貴重なメンバー編成によるユニット曲です。欅坂46の1stアルバム『真っ白なものは汚したくなる』に収録されたこの楽曲は、後にも先にも追随されることは無かった「欅坂46とけやき坂46それぞれからメンバーが選出された曲」です。
参加メンバーはそれぞれ、欅坂46からキャプテン・副キャプテンの菅井友香さん、守屋茜さん、けやき坂46から加藤史帆さん、佐々木久美さんです。
当時けやき坂46は欅坂46のアンダーメンバー的な立ち位置にありました。その活動は、実質的に別グループと言えるような言えないうな、絶妙なものでした。
アルバムに続いてリリースされた5thシングル『風に吹かれても』には、当初けやき坂46から選抜メンバーが加わろうとしていたとの証言もありますが、ともかくその狭間のタイミングに用意された楽曲と言えます。
2グループ間の絶妙な関係性は、どうやらこの楽曲にも落とし込まれています。〈猫〉を挟んで駆け引きされる2人の関係に、それが準えられているように思うのです。
そこには〈僕〉と〈君〉の微妙で中途半端な関係が描かれています。やや親密な接触はありつつも恋人関係にない(少なくとも〈僕〉はそう思っていなかった)、不安定な距離感です。
その関係性は、ある〈猫〉を拾ったことがきっかけだと記されています。同時に〈僕〉のどこか優柔不断な様子や、逆に〈君〉の方から積極的に関わってくる様子が描かれます。
〈僕〉と〈君〉の関係は、欅坂46とけやき坂46の関係に重なるように思いますが、しかしどちらがどちらに当てはまると断定はし難いように思います。
むしろどちらも〈僕〉側と言うか、いつの間にか歩み寄ってきた存在として、双方の視点が〈僕〉から〈君〉を見たものとしても良いかもしれません。ある意味このグループの「そうしようとしてそうなった訳ではない感じ」が、あやふやな〈僕〉の態度に通じているように思います。
そこでの〈猫〉も、けやき坂46発足の大本的存在である長濱ねるさんかと言うと、そうではないように思います。実際の状況的に、誰より苦労したのが彼女であるからです。気ままに翻弄する立ち位置だったとは間違っても言えないでしょう。
それこそ、〈猫〉は「そうしようとしてそうなった訳ではない感じ」そのものと言うか、2グループが同組織として成り立ったことは限りなく外的要因によるものであり(少なくとも本人たちの意志ではなく)、そんな「要因」を漠然と形にしたものが〈猫〉ではないでしょうか。
だからこそ、その〈名前〉を問うのかもしれません。「私達ってどういう関係?」なんて会話が男女の間で交わされることはあると思いますが、それは〈猫〉によってあやふやに繋がれている状態なのです。
繋がっているようで断絶している、断絶してるようで繋がっている2グループの状況を言い表しているのがサビの歌詞です。
対岸の火事よろしく、良くも悪くもお互いにあまり影響を受けていないとされています。同じ名を冠しているようないないような状態で、それぞれの活動は(兼任していた長濱ねるさんを除いて)ほぼ切り離されていました。
そんな2グループがその後どうなったのかは現在の通りです。結果的にどちらも名前を変え、個別に(メンバー構成を変えつつ)活動の幅を広げています。
『猫の名前』は終始あやふやさがあやふやなまま描かれていましたが、そこには同時に未来の展望もひっそりと記されていたようにも思います。
繋がりを保てなかったことが〈後悔〉に、その時実現できなかった消えない希望が〈キス〉に現れているとは言えないでしょうか。
2グループは、それぞれ独立しながらも、敢えてその繋がりを保つように『W-KEYAKI Fes』として合同のライブも実施されました。
歌詞の中では結局決まることのなかった〈猫の名前〉ですが、それと重なる現実においては、時間をかけながら何がしかの答えが出たのだと結論付けても良いのかもしれません。
期待していない自分(けやき坂46)
『期待していない自分』は、日向坂46が改名する前に発売された、けやき坂46の1stアルバム『走り出す瞬間』にリード曲として収録された楽曲です。
発売年の2018年は、年始に急遽決まった日本武道館3days公演を実施、単独冠番組『ひらがな推し』のスタート、3期生の加入、年末に再び日本武道館3days公演が行われるなど、欅坂46の二軍的立ち位置であったところから、独立したグループとして「動き出した」感のある期間でした。
実際、年が明けた2月に「日向坂46」への改名が発表され、単独のグループとしての活動が本格的に開始されます。
その渦中に生まれた楽曲『期待していない自分』は、ドキッとするタイトルですが、むしろアルバム名である「走り出す瞬間」を描いているように思います。それぞれの名前が付けられたタイミングは定かではありませんが、全く無関係ではないでしょう。
歌詞を見てみると、序盤のA,Bメロにはネガティブな言葉が並んでいます。
やんわりと絶望に呑まれているような印象を受けます。〈僕〉が「何も上手くいかない」という状況に意気消沈し、とぼとぼと歩いているような場面に思えます。
しかし、おそらく実際はそうではありません。
後半の〈背中丸めてうつむきながら答えを探そうか〉は皮肉です。
2番のA,Bメロの歌詞で示された、周囲の声や〈大人たち〉に対して「こうでもすれば満足か?」と声を掛けているような言葉であり、本当に〈僕〉がうつむいている訳ではないはずです。
何故ならば、サビの歌詞こそが〈僕〉が〈躓いて〉しまった答えだからです。「~じゃない」と続くため明確な状況は掴みがたいように思いますが、空を〈見上げて〉いたこと、そして〈〈ずっと見上げてたわけじゃない〉=前を向いてもいたと想像できます。
それこそ「うつむいてなんかいなかった」と示される訳です。
時に〈僕〉の気分は浮き沈みしますが、諦めに支配されている訳ではありません。
曲のタイトル『期待していない自分』の真意は1番サビの歌詞で明示されています。
ここで書かれた「自分に期待しない」ということが諦めでないのであれば、正しくは、闇雲に理想を追わないということではないでしょうか。
もっと言えば、その「期待」とは「自分は何かの天才かもしれない(何の行動もしないけど)」という無根拠な自信であるようにも思います。
そういった意味の「期待」を捨てているということは、この楽曲で描かれた〈僕〉の姿は「自分は天才でもスターでもない、でも歩みを止めない」という意味合いを持つものです。
「これから何かが始まる」「〈僕〉が始める」と感じさせる歌詞です。ピアノの旋律でザワザワと焦燥感を煽られるサウンドもそれを後押しします。
そんな〈僕〉の姿が刻まれた『期待していない自分』が、「動き始めた」頃のけやき坂46に与えられたということが、何より彼女達へのエールのように思えます。
上で「天才でもスターでもない」とは書きましたが、その実〈僕〉が「何か」を持ち合わせていることも示唆されています。
これが、かつて自分達の存在意義を見失いかけた彼女達に宛てて贈られた言葉だと受け取ったら、また素敵なように思います。もちろん、あれから何年も経った現在は、更に先へと進んでいるはずです。
2018年当時の『期待していない自分』は、このような意味合いを持つ楽曲であったように思います。
日常(乃木坂46)
乃木坂46のシングル表題曲と、同シングル収録のアンダー楽曲は、対になった関係にあると常々感じていました。
それは単にセットになるという意味ではなく、「楽曲のテーマ、メッセージも共通している」ように思います。
『日常』という楽曲もまた同様で、かつ他と比べても顕著。表題曲である『帰り道は遠回りしたくなる』と限りなく近しいことを歌詞において発信しています。
その上でこの2曲は絶妙に温度感が異なり、それが各曲の個性や役割として現れています。
そもそも『帰り道は遠回りしたくなる』は西野七瀬さんをセンターにした所謂「卒業シングル」であり、歌詞においては、グループから旅立つ西野さんの視点が当て書きのように投影された、「ここから飛び出したい」という衝動が描かれています。
その一方、「元いた場所」「その環境」を変わらず大切に想っていることが以下の歌詞に現れています。自らの意思で旅立つながら、大切な相手との別れを惜しむ気持ちも含んでいるのです。
飛び出した先にあるものが尊く、未知なるものにワクワクするからこそ、居心地のいい場所や大切な仲間と別れを告げてでも『帰り道』の〈僕〉は変化を求め、旅立ちます。
対して、『日常』も変化を求めるという点では全く同様で、〈僕〉の「飛び出したい」という衝動が同じく描かれています。
決定的な違いは「元いた場所」への態度です。
〈好きだったこの場所〉〈大切な思い出〉と断言していた『帰り道』に対し、『日常』は〈決められたレール〉〈止められない毎日〉と、反抗心や嫌悪感さえ見出せる表現になっています。
実際、『日常』は「元いた場所」に対して以下のように言い放っています。
まず『帰り道』がなぜあのような表現かと言うと「西野七瀬と乃木坂46」が投影されているからです。歌詞の言葉通り、乃木坂46がそういう場所であり存在であったため、『帰り道』のニュアンスもそれに即したものになっています。
『日常』における「元いた場所」は、乃木坂46という環境、仲間ではないでしょう。一方で〈僕〉にはセンターを務める北野日奈子さんを重ねてしまっても良いように思います。
北野日奈子さんは『日常』発表年の夏まで、体調不良を理由に長らくグループ活動を休止していました。
活動休止期間中、急速・治療に専念していたとはいえ、自らの意思でコントロールできない状況にあったことで、彼女の中にフラストレーションが溜まっていたと想像出来ます。
また北野さんはグループ活動において、2016年以降、選抜メンバーとアンダーメンバーの活動が入れ替わることが多い立場でした。選抜メンバーを目指すことを掲げていた(度々口にしていた)彼女は、思うようにいかないフラストレーションを抱えていたのではないでしょうか。
この2つの点から見受けられる「停滞」、それが『日常』における「元いた場所」です。率直に言えば、それはネガティブなものであり、『日常』の叫びはそこからの脱却を求めるものでした。
故に『日常』で描かれた「ここから飛び出したい」という衝動は激しく、攻撃的と言っていいほどです。
ライブでの披露の際は、マイクに入るメンバーの歌声がまた研ぎ澄まされた切実なもので、なおさら『日常』と言う楽曲が持つボルテージを高めるように思います。
『帰り道』には、扉を開け放って笑顔で駆け出していくような、ひとつの瑞々しさがありました。〈風〉と言うワードも寄与し、楽曲を聞いた時(ライブで観た時)に感じるのは、どこか切ない部分に加えて、スッキリとした爽快感も含んでいます。
『日常』はそれとはまったく違う、肩で息をするような激しさ、熱を持っています。楽曲の高まっていくボルテージは常に会場ごと巻き込み、すべてを『日常』の世界に閉じ込めてしまいます。
話が逸れてしまいましたが、ライブで観た際の「質感」が歌詞とそのまま重なる、ということが言いたいのです。
同じ「ここから飛び出したい衝動」であっても、『帰り道』には未来への期待感やピュアな変化願望があり、『日常』からは溜まったフラストレーションと嫌悪感や拒絶が見出せました。
このように『日常』には、対となる『帰り道は遠回りしたくなる』に近くありながらも、決定的に違う衝動が描かれています。
風船は生きている(乃木坂46)
17thシングル『インフルエンサー』にカップリング収録された『風船は生きている』。この楽曲の参加メンバーによって当時行われた東京体育館でのアンダーライブは今も語り草です。
その要因は言い尽くせませんが、多くある内の一つに、当時触れ込みとしてあった「史上最弱のアンダー」との表現も含まれるように思います。この言葉の根拠は、単に歴代最少人数(12名)であることに由来したものでしたが、当時の雰囲気を振り返ってみると、物々しい響きが先行した感も否めませんでした。
その事がどれほど影響したかは量りかねるとしても、件のアンダーライブに臨むメンバー達は相当な気合いの入れようであったと記憶しています。
そんなライブを牽引したのが『風船は生きている』でした。上記のような背景(の雰囲気)とは打って変わって、この楽曲は非常に軽やかなものです。アコースティックギターが奏でる循環コードに乗せたメロディは、釣られてしまいそうなほど明るく、〈風船〉というモチーフそのままに楽しげで爽やかな印象を受けます。
しかし歌詞を詳しく見てみると、それは軽やかと言うか、何やら悩まし気なようにも思えます。〈元気が無い時って誰も皆あるよね〉と零しながら、人間関係や社会、環境に翻弄されている様子が描かれています。
〈風船〉というモチーフも、冒頭ではまず萎んで地に落ちている状態が記されています。それを見かけた歌詞の主人公も、どこか物憂げに耽っているようです。
そんな「僕」(とは書いていませんが)の身に何があったのかは定かではありませんが、何かしらの挫折を経験したようです。夢破れたのか、夢が叶ってみたら想像と違う〈現実〉に見舞われたのか、ともかく自暴自棄的な様子に思えます。
しかしながら、そんな悶々とした状態に終始するのではなく、達観した考え方も持ち合わせています。「僕」は「それで良いんだ」と自ら思えてもおり、じっくり深呼吸するように、それを内心で唱えて繰り返し確かめています。
そんな様子を『風船は生きている』と例えているのが秀逸です。「僕」は時おり〈シュンとして〉しまうこともありますが、そうなったらそうなったで〈いいじゃないか〉、とも謳っています。そうしたらまた次に、〈感情/膨らみ/強くなって飛べるはず〉とも宣言しているのです。
ただの〈風船〉ならば、冒頭の描写の通りに〈萎んで〉それで終わりでしょう。しかし「生きている」のです。まさに呼吸をするように、一度空気が抜けてもまた大きく吸い込めば〈膨らみ〉、その豊かな形を再び獲得することが出来ると言うのです。
これが「史上最弱のアンダー」であった渡辺みり愛さん率いる彼女達のこと(自身、あるいはそれに向けたエール)としてしまうのは、いささか短絡的かもしれません。しかし、実際そのようなメッセージとして機能するものに出来上がっています。
メンバー達の辿るドラマを始め、曲、歌詞などが色々とリンクしてこの楽曲を盛り立てています。例えばその振り付けの最後、両手を縦に広げるように掲げますが、それは裁判の結果を知らせる「勝訴」のポーズを基にしてます。
膨らむのと萎むのを交互に逡巡する様が描かれたこの楽曲ですが、最後に勝利宣言を掲げることは、歌詞の中にのみ描かれた物語を超えた、エピローグ的な結末と言えるのではないでしょうか。
〈強くなって飛べるはず〉という一言で幕を閉じることが何より象徴的です。この楽曲の最後の最後の勝利宣言は、おそらく東京体育館でのアンダーライブにて、実感をもって伝えられたはずです。
『こんなに美しい月の夜を君は知らない』、幻冬舎より発売中。
その3。