春が咲いたら
東京で桜の開花宣言があった翌日、2年ぶりの東京ソロライブは一人きりでのライブだった。
唄人羽のときとはまた少し違った空気感のソロライブ。ゆるっとしたトークをしたかと思えば、歌い出すと別人のようになる。変幻自在の歌声とソロならではの選曲。本多ワールドは、相変わらず自然体でなんだか居心地がいい。それは配信で観ていても同じだった。
ちょっと照れ隠ししてるような、どことなくソワソワしてるような、、距離感を探ってる感じも、感覚を取り戻そうとしてる感じも、この「2年ぶり」という月日の経過を物語っていた。
ちょうど一年前くらいに配信で歌った「春が咲いたら」という曲がある。ライブタイトルにもなったこの曲を届けるためのライブだったと思う。
このライブの前日、東京でお世話になった人と会って一緒に愛犬ミミィの散骨に行ってきたそうだ。桜の木の下で、あーだこーだ言いながら咲き始めの桜を見上げて物思いにふけっている間に、その人が終わらせてしまってた。なんて、こんな話でもオチをつけるあたりが何ともてっちゃんらしかった。あまり悲観的にならず、かといって楽観的すぎない、ちょうどいい感じの空気を作るのが本当に上手。
ギターにトントンと合図して
静かに奏でたメロディーはとても優しく
その表情はこの日一番穏やかだった。
愛犬との別れを歌にするのはどれだけ大変だっただろう。何年も引きずっていた私には到底想像できない。ミミィが亡くなった直後、東京でソロライブをしたとき、「ミミィ」という歌をうたう際に「誰かのために作った歌をのこしてしまったらいかんね」と言っていたことを思い出した。そのときは「いつか誰かの心に寄り添えるように歌っていきたい」と前向きに話していたけど、しっかりと向き合って新たな歌として形にのこしたのだ。
何気ない毎日の中でも、その存在こそが日々を彩ってくれている。「ミミィ」はそんな歌だった。
大切な存在を失ってから残るのは、目に見える遺された物だけでなく、その宝物のような日々の思い出たちや表情や仕草の記憶のような目に見えないものも多くあるはずだ。そしてそれらは色濃く鮮明でそれもまた形を変えた「幸せ」といえるものかもしれない。「春が咲いたら」はそんな歌だと思った。
誰かの大切な存在をこんなにも身近に感じて、触れたこともないのに思い浮かべて涙が出るのは、きっと後にも先にもミミィだけだろう。それだけあふれるほどの愛を見てきたからだと思う。
その存在を感じることができるからこその愛と、
もうこの手で触れることができないからこその愛。
その両方を歌に出来るのは、てっちゃんしかいない。
この歌の中でミミィは存在し続けている。浮かぶその景色の中に間違いなくいる。きっと春が来るたび、桜を見るたび、そしてこの歌を唄うたびに、思い出と共にそっと胸に舞い降りてくるだろう。
てっちゃんの思い出が歌となって伝わって
それが私の中で溶けて私の思い出と交ざって
私の思い出の景色が広がって
追い討ちをかけるように涙があふれた。
てっちゃんの声はいつも
さりげなく心に入ってくる。
あまりに心を開放しすぎて
うっかり会いたくなってしまった。
思い出の中にいる人にも
てっちゃんにもミミィにも。
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