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山王海ダムと木炭の話2(畠山剛氏の著書から)

 「山王海ダムにはダム底に沈んだ集落があり、そこで暮らした人々は木炭生産で収入を得て生活していた。」
その話を聞いたことがきっかけで岩手の木炭生産の歴史やかつての山王海集落での人々の暮らしが知りたくなり、様々な文献を探すようになりました。
 岩手の木炭生産について記した本「炭焼物語」「岩手木炭 ーその近代のあゆみ」「炭焼きの二十世紀」は、中学校教員だった畠山剛氏が、赴任先の北上山地内の中学校で、製炭業をしながら貧しい暮らしをしていた生徒の家庭をいくつも見てきたことで、子どもが安心して通学できる生活実現させたいという思いから、木炭生産者の地位向上を目的に岩手の木炭生産者について記したものです。
「炭焼物語」には山村の人々の暮らしとともに、木炭生産の岩手県内での広まりと衰退が記されていました。

・岩手県を南北に走る二つの山脈-奥羽山脈・北上山地-には、藩政時代からのゆきとどいた管理も手伝って、ナラ・クヌギなどの落葉樹が豊富に貯えられておりました。困窮した農山村の人々が、この目の前に限りなく広がる山林に着目したのは、当然のことといえるでしょう。
 しかし、その山地はあまりにも奥深く峻嶺ゆえ、しばらくの間は、その山林から価値を生み出す方途を見出すことができなかったのです。樹木を伐採し、用材として搬出するためには、流送(川を流して送る)しかなかった時代であり、山峡を流れ落ちる川はあまりにも急流で、しかも水量が少ないため、木材の流送は、一部の地方を除いては不可能だったのです。
 このような山奥の村々にも、しだいに改良製炭法が普及されはじめ、それによって木炭生産は山峡の樹木から価値を生みだす、唯一のそして最大の手段となったのでした。

・このように、炭焼きは、一家総出で仕事ができること、生産技術が比較的やさしいこと、樹木が短い時間で木炭に加工できることなど、山村の困窮農民にはうってつけの産業でありました。
 
・ひと昔前には、木炭原木を求めて木炭の生産現場は奥へ奥へと移動し、製品は人の背た木馬で車道まで運び出されたのです。だが、木炭の斜陽化が進み、共同化がさけばれるようになるころから、木炭の生産現場は徐々に山をくだってゆき、逆に木炭原木が山奥から自動車で運びおろされるようになりました。

・切炭化、共同化と、生産地での必死の対策は木炭産業の斜陽化をくいとめる力にはなりえなかったのです。それは、石炭産業の衰退で象徴される日本のエネルギー減の変化に起因するものである限り、製炭業という弱小産業がどのような方策をとろうと、しょせん水泡に帰するのは、必然のなりゆきであったといえるでしょう。

木炭物語  畠山 剛著 雄山閣出版株式会社 1971年

また「岩手木炭 ーその近代のあゆみ」「炭焼きの二十世紀」には山王海の事も記してありました。

「岩手木炭 ーその近代のあゆみ」から

・楢崎翁は、明治三九年に来県して、紫波郡山王海部落において、改良製炭法の伝習を行ったことは明らかですが、その来県事情は、なぞにつつまれております。
 私は、これを解明すべく、奥羽山脈の山ふところにある紫波郡紫波町山王海を訪ねました。山王海部落は、いまは無人の湖底の部落でした。水没直前の部落は、戸数三六、人口三八五人で、古くから畑作農業のかたわら、石窯による製炭と木細工(くわ台・へら・しゃもじ作り)を副業として細々と生活しておりました。
 ところが昭和二三年、県は紫波郡下二町六ヶ村の慢性的な水不足を解消するために、滝名川をせき止めて、山王海ダムを建設する計画を立てました。
 これによって、二一戸の農家と六〇余町歩の田畑など民有地が、水没する運命となり、住家が水没しない農家も、田畑が水没しては生活が成り立たず、ダムが完成する二六年までには、三六戸全部が県で用意した代替地などに、移住したのでした。

・志和稲荷神社から、滝名川沿いにのぼること約八キロ、山王海ダムの湖畔につきます。ここから北岸を約四キロ進むと、廃屋になって久しい小学校分校舎と並んで、部落の氏神様だった山王海山祇神社がみえてまいります。この境内には、「筆塚」「山祇神社」などの石塔・石碑が林立しておりました。これは人々が、部落を去るとき、部落のそこここにあった石塔石碑をこの地に運び、部落存在のあかしと水没による部落消滅の記念として、再建立したものでした。
 これらのなかで、ひときわ目立つのが、その正面に、「木炭製造椎茸養成法恩師 楢崎圭三之碑 明治四十二年七月九日」と記してある、高さ三メートルほどの真黒なイシノマキ石でできている、楢崎圭三翁の記念碑でした。
(中略)
 この碑文からわかることは、一つは楢崎翁が県の「嘱託教師」であったこと。二つは翁の実技指導は、田口培二郎が山王海部落に設立した、私立製炭所行われたこと。三つは、当時の村長は藤尾寛雄であったことです。

・かくして楢崎翁の招聘に成功し、これにより山王海部落の木炭生産量は、これまでの三倍から五倍に増え、製炭収入の増加は生活の窮乏化を確実にくいとめました。

岩手木炭 ーその近代のあゆみ  畠山 剛著 日本経済評論社 1980年

「炭焼きの二十世紀」から

・岩手県における改良製炭法の「事始メ」は、広島県の人 楢崎圭三による「製炭伝習」でした。この「製炭伝習」は、紫波郡山王海を主会場として紫波郡内の佐比内・赤沢・乙部の三ヵ村を順次巡回するもので、この会期は明治三九(1906)年四月二日から五月一二日までの四一日間でした。このうち山王海には二四日間が当てられました。

・山王海は紫波郡紫波町(当時は志和村)の西部に位置し、いまは昭和二三(1948)年に建設された山王海ダムの湖底に沈んでおります。志和稲荷神社から滝名川上流五キロほどのところにあったこの集落には、明治時代には三六戸の農家があり、ヒエ・アワなどの雑穀を蒔いて食料を得る一方、豊富な山林資源を活用して木細工(くわ台、へら、しゃもじなどの製作)と炭焼きで日手間を取っておりました。

炭焼きの二十世紀 書置きとしての歴史から未来へ  畠山剛著 彩流社 2003年

 畠山剛氏の著書に山王海の集落の事が記されていましたが、あくまでも楢崎圭三氏による「改良製炭法の伝習の地」としての紹介が主な内容で、山王海集落での人々の暮らしについて、詳細な記述はありませんでした。しかしながら、「木炭物語」で北上山地の山村の農民の生活が困窮していたことが記されていることから、山々に囲まれた山王海集落の暮らしが同じような状況であったことが推測できます。
 北上山地の山村の暮らしは「宮古市北上山地民俗資料館」の展示や、「森の生態史 北上山地の景観とその成り立ち」「山棲みの生き方 木の実食・焼畑・狩猟獣・レジリエンス」といった書籍で詳しく知ることが出来ます。厳しい環境下で山の資源を利用しながらの自給自足の生活は、森林・林業について様々な課題を抱える現代に暮らす私たちに「森林と共にどのように暮らしていくべきか」のヒントを与えてくれます。もし、山王海集落で人々が森林資源をどのように活用して暮らしていたかを知ることが出来れば、紫波町でどのように森林資源を活用し森と共存していくかを考えるヒントになったでしょう。


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