いつも最後のオチが苦手で途中でよくわからなくなるのが私の癖なんだね
こんにちはᙏ̤̫❤︎春です。
(最近ᙏ̤̫❤︎を使うのにハマっています)
前回noteを書いてから、半年程経ちました。
私はこの半年間にも結構いろいろあって、あっという間に9月も折り返してしまい、もうあれよあれよという間に年末になるのだろうと思っている今日この頃です。
さて、このnoteでの投稿ですが、今まではわりと自分の精神疾患に触れながら書くことばかりで、ふんわりとした闘病日記(?)のように自分としてはなっていた感覚です(最初なにをどう思って書き始めたのかは覚えていませんが、、^_-☆)。
ですが、アカウントのプロフィールを今の文章にしたいつぞやの自分によると
〝気が向いた時に脳内をいろいろ書きなぐるアカウントです५✍🏻〟
だそうなので、気が向いた私は脳内をいろいろ書きなぐろうと思います。
厳密に言うと、自称下手したらヒス構文になるほど妄想好きの気にしすぎ考えすぎ人間なので
今夏の異常気象も相まって、最近は身体中の毛穴という毛穴から脳内で考えていることが溢れ出しそうなほどになっており
よし、ここに書くぞ!ということにしました。
私は昔から「人からこういう人間だと思われたい」という思いからの言動が多くありました。
「嫌われたくない」「好かれたい」という、他者からの好き嫌いの観点から行動する、というのは他の人の話でもよく聞いたことがあります。
私も、もちろんそういうところはあるのですが、それ以前の話というか
「こういう人だと思われたい」
という気持ちが強くて、学生時代は
「こういうキャラだと思われたい」
みたいな気持ちだったと思います。
具体的な話で言うと、高校生の時。
私は、地元とはわりと離れた高校に進学したため、同じ中学校の人(つまりは中学時代までの私を知る人)が学年に1人しかいない高校生活をスタートしました。
それをいいことに、バッチバチに高校デビューをかました(後に調子に乗り大失敗するがその話はしません)のですが、
ここで、こういうキャラ(人間)だと思われたい気持ちが発動し、
「チュッパチャプスめっちゃ好きなんよな〜」と言いながら、毎日チュッパチャプスを学校に持参し、教室や廊下で食べていました。
なにが変かって、私は別にチュッパチャプスを特別に好きではありません。
いや、もちろん嫌いなわけではないですし、甘党で、ストロベリークリーム味が1番好きだったのも事実ですが
そんなに毎日持参して、家にストックして、百均の3本108円を見つけたら必ず購入して、誕生日には大量のチュッパチャプスをたくさんの人からプレゼントしてもらう程、特別に好きではありませんでした。
でも、私は高校3年間、チュッパチャプス大好き春ちゃんとして生活し、卒業しました。
そうなったのも、何故かはわからないのですが「チュッパチャプスをいつも食べているようなキャラ」に憧れたのがはじまりなのだと思います。
周りにいたわけではありませんが、アニメとか漫画とかで出てくるそういうキャラです。
そして、はじめは軽い気持ちで「チュッパチャプス大好き春ちゃん」をはじめたのですが、3年間続けると、苦労もありました。
「本当はそこまで大好きなわけじゃないのに大好きだと思われている、嘘をついている、、」
「あぁ、私が喜ぶと思ってこんなにチュッパチャプスをたくさんプレゼントしてくれた、、キャラ作りとは絶対言えない、、」
という謎の罪悪感を抱いたり、誕生日等であればあまりに大量のチュッパチャプスをもらうので、甘すぎて食べきれなかったり。
しかも、それなのに、チュッパチャプスほしいとか言ってしまったりするのです。本当に意味がわかりません。
でも、そんな苦労を感じる反面、ものすごく嬉しい気持ちもありました。
「私がチュッパチャプス好きなこと覚えててくれて、私が喜ぶと思ってプレゼントしてくれたんだ!」
「私がチュッパチャプスを好きだということが、こんなにたくさんの人に定着しているんだ、、!」
みたいな感じで、チュッパチャプスを通して、たくさん幸せな気持ちになったことを覚えています。
チュッパチャプスのお話はだいぶ特殊な例ですが、他にもたくさん
「人からこういう人間だと思われたい」の気持ちから行動を取ることが多くあります。
高校時代だと、チュッパチャプスの他にも「ポジティブキャラ」もありました。
ポジティブな人間だと思われたくて、全部の言葉をポジティブに捉えている返しをしたりしていて
これによって、なにを言っても大丈夫だと思われた結果、ディスいじりみたいなのを仲間内でされまくってしまって傷付いたりしていました。
本当は鬼のネガティブだからです。
最近だと「私引きこもりなんですよね」とよく言ってしまいます。
実際にわりと引きこもり性質なので、これに関しては本来の自分と違うわけではないのですが
「でもライブとか行ってるよね〜」
「でも演劇をしに休みの日に出かけたりするんでしょう?」
「でも飲みに行ったりするんじゃない?」
などと言われた時に
「そうですね、でもほんまに、それ以外はずっと引きこもりで」
と謎の引きこもりアピールをしてしまいます。
でもこれにも理由があって
ポジティブキャラ=なにを言われても傷付いていないように見られたい。結局、なにを言われても傷付かないようなポジティブ変換を自然にできるようになりたい。
引きこもりアピール=あまり心身が強い方ではないので、元気ハツラツな人間だと思われたくない。でも普段気丈に振舞ってしまうので、休みの日は引きこもりなことをアピールして、根が明るい人間だと思わないでほしい。
という気持ちのあらわれだと思います。
そして、ここまでの話で総じて言えることは
私はかなり自意識が強いということ。
嫌な言い方をすると自意識過剰です。
多分みんな、そんなに私の存在って気にしていません。
それなのに
「こう思われるかな、、」
「こう思ってほしいな、、」
「こんなふうに見られたいな、、」
という思いから、自分が思われたい人間像に近付けようと必死になり、1人で脳内でオロオロしてしまうのです。
そして、そんな自分のことを、私はあまり好きになれませんでした。
根本がネガティブなので、こんな性格を「かっこつけ」「悲劇のヒロイン」「ナルシスト」「めんどくさい」等、たくさんのマイナスな捉え方をしてしまい、恥ずかしい部分で、なくしてしまいたい部分でした。
でも、ある日友達が
「【私の本名のあだ名】のそういうところ、すごいと思う」
と言ってくれました。その子は、
「自分がこう見られたいというのを、貫き通せるのがすごい」
というような内容のことを私に言ってくれて、私は目からウロコというか、心の中で大仰天しました。
その子からしたらほんの些細な一言かもしれませんが、私はその子がきっかけで
「自分のこんなところをすごいと言ってくれる人がいるんだな」
と思うようになり
「自分のこういうところも、なくそうとするんじゃなくて、うまく付き合っていけたらいいのかもしれないな」
と思うようになりました。
人の言葉で傷付くことも多いけど、人の言葉ですくわれることもたくさんあります。
私の言葉で人を傷付けたくはないけれど、絶対傷付けないとは言いきれません。それは極論、相手にしかわかりません。
でも、私はこれからもきっと、言葉に頼っていくんだろうなと思います。
少しでも、素敵な言葉を選んで、発して、伝えていけたらいいなと、強く思います。
そして、この強い自意識も、気にしすぎな性格も、見栄も理想も、昔の恥ずかしいと思ってしまうエピソードも、私は私だと思いながら生きていけたらいいなと思いますᙏ̤̫❤︎