「没」が無い投稿
これは、私がブログで2015年に書いた記事を、編集してnoteに再掲載したものです。
そのため、記事中で紹介しているソフトは、すでに販売終了していることをご了承ください。
4年も経った今になって記事をこちらにアップするのは、ここで書いている「ネットの現状」が今も全く変わっていない「現在のネットの問題」でもあるため、再掲できると判断したためです。
過去に触れて思い出す
2015年の8月、主に80~90年代PCゲームをダウンロード販売するサイト『プロジェクトEGG』より、このようなソフトがパッケージ発売された。
かつて存在していたゲームメーカー『コンパイル』が、80~90年代に発売していたディスクマガジン『ディスクステーション』(以下DS)。そこに収録されていたゲームから数本をピックアップと共に、開発資料、当時の話などが追加されている。
また、#01と付いているが、2019年の時点で『ディスクステーションRe#02』までが発売されている。
DSは当時、フロッピーディスクという媒体で、MSX、MSX2、PC-98版を発売していたが、私は当時所有していたPC-98版で楽しんでいた。
このソフトの魅力は、ミニゲームやデモなど毎号収録されているコンテンツの数々だが、ユーザーからのお便りコーナー、テーマ企画を設けた投稿、ゲームのスコアアタックなど、ユーザー参加型の企画も大きな要素だった。
投稿は主に、封書や葉書などを使った書面、もしくはフロッピーディスクにテキストファイルを入れて郵送する。編集部ではそれを受け取ってから編集してソフトとして発売するので、応募から掲載まで2~3ヶ月はかかる。
今のネットで書き込むだけの感覚で見れば、信じられないくらいの時間と手間がかかる話だが、当時はそんな時代と共に、逆に手間がかかるから面白い感覚があったことも覚えている。
でも今回のDS Reを見ると、大きな魅力の一つだった「ユーザー投稿」は募集していない、ゲームも新作は無くエミュレータによる再録のみ、あとはインタビューや過去資料など、あくまで「当時を振り返る」という楽しみ方となっている。
読者投稿・私の場合
それを見て、少し寂しい思いもあったので、ここで実現されなかった「読者投稿」について、私が思い出したこと、今になって改めて思ったことを書いていきたい。
私は80~90年代にかけて10年ほど、いくつかのゲーム雑誌やパソコン雑誌の読者コーナーに投稿を出していた。イラストは全く描けず文章のみで、ネタよりも真面目な意見やゲームレビュー的なものが多かった。ペンネームは「司隆(つかさ たかし)」、現在Twitterなどで使用しているこの名前は、当時からの付き合いでもある。
この名前で、DSにも投稿して掲載されたことはあるが、変な主張や中傷するようなものも書いたり、今となっては反省しつつ、恥ずかしいものではある。
そんな投稿者にとって、必ずといっていいほど味わうのが、「没」というもの。
要は「不採用」のことをそう呼んでいるが、没になった投稿は、雑誌掲載という日の目を見ず、文字通り消滅する。投稿者は、その没を乗り越えて掲載されるかという、まさに戦いの中で出していた。
没は無いのがいい?
その「没」について、当時のDS内、ユーザーのお便りコーナーに、こういう意見を書いている人を何度か見たことがある。
「ネットの書き込みは、雑誌投稿と違って『没』が無いからいい」
ネットといっても、当時はインターネットではなく、電話回線を使った「パソコン通信」のこと。回覧数や機会に違いはあれど、書いたものは必ず何らかの形で誰かに読まれる、つまり全て採用される。没がある投稿より、その方がいいという話。
私がこれを見た時、大変失礼ながら「ああ、投稿をあまり出してない人はそういう感覚なんだな」と思った。私の考えは全く逆で、雑誌投稿は「没があるからいい」、ネットは「没が無いから怖い」と思っていた。
私の「没」との戦い
ここで、少し話はそれるかも知れないが、私の投稿者時代のエピソードについて書いてみたいと思う。
前述した通り、私は数多くのゲームやパソコン雑誌に投稿を出していたが、それなりに経験を積んでいくと、ある程度見えてくるものがある。それは、各雑誌が求めている「投稿の方向性」みたいなもの。
ここはネタ中心か、レビューや真面目な意見が中心か、両方受け付けてくれるか。口調は普通に書くべきか、特に真面目か、ある程度崩すべきか、など。
このような方向性は、読者投稿コーナーの担当者の趣味によるものが大きく、担当者が変わったら方向性がガラリと変わることもある。
でも、それがまだない新創刊の雑誌では、創刊前に他誌で投稿募集をかけていたり、1号目で告知して2~3号から始まるケースが多い。そこで、逆に自分の方向性に持って行こうとインパクトの強いのを書いたこともある。
過去には、コーナーの1ページは何文字・何行の字数かを数えて、文章をその字数を調整しながら書いて、全て計算したうえで、1ページまるまる自分の投稿が掲載されたこともある。狙って当てた達成感は最高だった思い出。
つまり、没があるから何かを考え工夫する、でも嘘や創作はせず(明らかなネタはそれと分かる書き方で)、その中に自分の言いたいことを文章に入れる、それが載るからこそ嬉しい。
だから、没があるからこそ面白いと思っていた。
「没」がある世界と無い世界
そして今、少なくともゲーム関係で、文章を書いて掲載を競う雑誌投稿はほとんど存在しなくなり、私もネットでの書き込み(過去にはメディアの執筆含む)だけ、没のあるものから没の無いものへ完全に移行している。
その世界では、何を書いても誰かに読んでもらえる反面、確実な情報がないものやデマ、中傷、無責任で自己中心的なものも含む。それが誰かの目に止まることによる炎上や拡散、そしてデマがまかり通ったことで被害に遭う人。
当時から今のネットを予測していたわけではないが、これが「雑誌投稿は没があるからいい、ネットは無いから怖い」と思う理由だった。
また私も、雑誌投稿でそういう自己中心的なものを書いて掲載されたことが何度かある。今のネットだったら間違いなく炎上するようなことでも、雑誌では何も無い、反省や恥ずかしい思いをすると共に、読んだ人の声が聞こえないことが、逆に辛いと感じた。
没がある世界と無い世界、本当はどちらがいいのだろうか?当時『ディスクステーションRe』に触れたときに、そんなことを考えていた。
そして2019年の今、過去の記事を改めて読んで、再び思う。
「没はあった方がいいのか、ない方がいいのか?」
それに対する、自分としての明確な回答は、いまだ出ない。