戸
戸。
それはわたしと世界との境目。
戸。
それはわたしに世界を見せるもの。
戸。
それはわたしに世界を隠すもの。
戸。
それは存在して、存在しないもの。
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わたしは戸を通じて世界を見ており、戸を通じてしか世界を観れない。
目を開ける。目を閉じる。
目を開けると景色が見え、目を閉じるとそれはなくなり、一面が闇になる。
よって目は戸である。
耳を開ける。耳を閉じる。
耳を開けると音が聞こえ、耳を閉じるとそれはなくなり、一面が闇になる。
よって耳は戸である。
鼻を開ける。鼻を閉じる。
鼻を開けると匂いを感じ、鼻を閉じるとそれはなくなり、一面が闇になる。
よって鼻は戸である。
舌を開ける。舌を閉じる。
舌を開けると味を感じ、舌を閉じるとそれはなくなり、一面が闇になる。
よって舌は戸である。
よって身体は戸である。われわれは戸を通して世界を見ている。否。戸を通してのみ世界を観測できるのだ。世界を観測しているのはわれわれの精神ではなくわれわれの身体、もっと言うとそれに付随する一器官でしかない。
われわれはわれわれの精神だけでは世界を見れないのだ。まるで映画のように。
映画はスクリーンの中で起きたことは、スクリーンの中では本当である。しかし、われわれは映画をスクリーンという器官を経て受信する。するともう、われわれにとっての映画は戸によって作られたフィクションである。
これはすべてのものに言える。
よってわれわれが目指すべきは戸からの脱却、つまりは身体というスクリーンを通して受信する偽りの感覚ではなく、より精神的な、高次の感覚にたどり着くことである。
それにはまず物質主義的な幸福論の破壊が必要である。
身体が戸であるように、物質もまた戸である。
車、時計、家、服、料理。
すべては戸が作り出した偽りである。戸からの脱却を目指すわれわれにとってこれらは邪魔である。
戸を身体のメタファーとするならば、つまり戸からの脱却は身体からの脱却を意味する。
身体からの脱却とは?
それは魂のみの愉悦か、はたまた、完全な自由化の行われた、束縛的材料の一切がない状況なのか?
いずれにせよこれは結果の話である。わたしのするべきは動作の話である。
しかし脱却というもの自体が身体性を帯びているのではなかろうか?その言葉は概ね正しい。
だが、精神的で、精神だけで完結する動作も十分にある。トランス状態がその例だ。
しかし、トランス状態もまた身体性に縛られており、戸からの脱却を真に成し遂げてはいないのでは?
まだわからない。ここはさらに考える必要が生じる。戸からの脱却方法の回答を得るには、おそらく途方もなく長い年月を必要とする。わたしはそのころにはきっと老齢となっているだろう。そして死が発生する。
現状、死のみが唯一にして絶対の戸からの脱却方法であるのかもしれない。しかし死もまた、身体性に縛られた行為であることは否めない。
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