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ニューヨーク聖地巡礼旅(第1章)/ 『The Godfather』

前の記事で、つらつらと身の上話を綴り過ぎましたがゆえ、
1500文字もあったのに、成田空港から離陸し、
JFKを素通りしてニューアークでの出国までにしか至りませんでした。

ということで、今回ようやく本題に入ります。
『ニューヨーク聖地巡礼旅』と題して旅に出た私でしたが、
この旅には、

〜リトル・イタリーの神秘、
あるいは、ウディ・アレン/ マンハッタン画角を求めて〜

という副題があります。
これについて、複数記事に渡って明らかにしていきたいと思います。
さあ、参りましょうか。




私はニューヨーク滞在中、その概ねすべてを聖地巡礼に捧げました。
言い換えますと、
私の愛してやまない映画の数々が現実世界に根付く場所場所を訪れ、
その度に、挙動不審になってウルウルする(なんて面倒臭いやつ)という
ことをひたすら繰り返しました。

『初めまして』と題した最初の記事で、
私の映画人生は『LEON』から始まったと言及しました。
そうとなれば不可抗力。
映画というものは、世界中のあらゆる場所で日々産み落とされていますが、
私はそのどれよりも、ニューヨーク派の映画を愛してきました。

ですから、ニューヨークという街は私にとって
現実世界と映画世界の境界が無い、夢の国なのです。

訪れたい場所は無数にありました。
そして、短い日数の中で様々な場所を訪れることができました。
その中から厳選して、ご紹介していきたいと思います。




まず、『ニューヨーク聖地巡礼旅』の本編第1章はこちら。

2022年4月/ マチルダ撮影

言わずと知れたマスターピース、
1972年に公開されたフランシス・フォード・コッポラ監督作
『ゴッドファーザー』シリーズに登場するこの『RADIO CITY MUSIC HALL』。

マイケル(アル・パチーノ)は、ケイ(ダイアン・キートン)とのデート中、
父であるドン・コルレオーネ(マーロン・ブランド)が襲撃されたことを知るのがこの場所です。


夜のタイムズスクエアが見たいと思い、
日が暮れるのを待つため街を散策していたら突如お目にかかれました。
さすが夢の街。
やはり、現実世界と映画世界の境界線がありませんでした。
もしかするとあったのかもしれませんが、恋は盲目とはナイスな言葉です。
そんなものを目に入れる隙は寸分も無く、
もう、食い入るようにネオンサイン見つめました。


タイムズスクエア周辺をうろうろしていると突如出現するので、
ファンの皆様は、心臓が止まらないようにお気をつけ下さい。

1260 6th Ave, New York, NY 10020
ドン・コルレオーネ襲撃の新聞を片手にRADIO CITYを後にする、マイケルとケイ




ところで、今年2022年は映画『ゴッドファーザー』生誕50周年記念。
午前10時の映画祭やら何やらで、4Kリマスター版が劇場公開されていますね。

私は、目黒シネマにてpartⅢを鑑賞してきました。

2022年7月/ マチルダ撮影

シリーズを通じて、本作を劇場で鑑賞したのは初めてです。
結末を知っているだけあって、クライマックスに近づくにつれ、
胸がどんどん締め付けられ、また同じところで泣いてしまいました。

何度観ても、パチーノの無音の叫びに涙が止まりません。


最終章の副題は、「マイケル・コルレオーネの最期」。
当初コッポラは、タイトルを「マイケル・コルレオーネの死」と予定しており(パラマウント側が却下したらしい)、トリロジーでは無く2部作と後日談の1作とする予定だったようです。と、どこかで読みました。

「マイケル・コルレオーネの最期」にしても、
「マイケル・コルレオーネの死」にしても、
私にはひとつ、共通して浮かんでくる心持ちがあります。

本作は、ほとんどの人が既に鑑賞していると思いますので
ネタバレなどを憚らず申し上げますね。

最終章では、コッポラの娘であるソフィア・コッポラが、
アル・パチーノの娘役として出演しています。
そして彼女は、作品ラストにて銃殺されてしまいます。

前2作では、「NY暗黒街に君臨するファミリーの栄枯盛衰を描いた年代記」
と称されるのがふさわしいように、
血肉顧みないマフィアの権力争いが描かれています。
が、しかし最終章では、
ただ悩み、ただ苦しみ、ただ娘を愛するマイケル(アル・パチーノ)の姿が描かれており、そこには、作品と共に成長したソフィア・コッポラに対する
監督フランシス・フォード・コッポラの父としての姿を重ねずにはいられません。
本作は、1972年に第1作目が公開されており、
ソフィアは1971年生まれなので、まさしく我が子の成長と共に紡がれた作品な訳です。

マイケル・コルレオーネの"死"にしても、"最期"にしても、
それは物理的な彼の生命の終わりでは無く、
「娘」という超越的な存在を失うことに対する「父」としての精神的な末尾を意味していると思います。

シリーズ内において、この第3作目は低い評価に留まっています。
しかし私は、あくまで個人的な心情を作品に持ち込んだ、
父としてのコッポラの姿を好意的に捉えます。
それは、人の手によって作られる作品が、作り手の私情と乖離することは不可能であると思うからです。
いや寧ろ、映画にはそういった個人の内面が持ち込まれるからこそ、
時として私たち鑑賞者の奥底まで訴えかけてくるのだと思うからです。

だから私は、映画が好きです。
だから私は、「マイケル・コルレオーネの最期」が好きです。



お恥ずかしながら、つらつらと綴っていたら、
ニューヨーク聖地巡礼旅の記事がこんなところに辿り着いてしましました。

総じますと、
"マンハッタンでアル・パチーノを感じられて超嬉しい☆"
ということです。


ありがとうございました。


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