見出し画像

文章を書くってどんなことですか?

まゆ様

12月もあっという間に中旬に差し掛かり、寒さを背中で感じることが多くなりました。私は、出社する時には、背中の(風邪の予防や悪化を防ぐ効果があるといわれている)「風門」のツボに貼るホッカイロを貼って、なんとかしのいでいます。
まゆちゃんは体調を崩されたりしていませんか?

谷川俊太郎さんとブレイディみかこさんの往復書簡の本を読んで、「誰かとnoteで文通したい~!」と突然思いついた私のつぶやきに、まゆちゃんが反応してくれたこと、とても嬉しかったです。
あまり深く考えずに見切り発車しがちな私なので、とりあえずやってみればいいか~とも思ったのですが、誰かとのやりとりは、始めることは簡単だけれど、終わるということは難しかったりするので、終わり方だけは最初に決めておいた方がよいかもしれませんね。

そうですね、三往復くらいを目途にやりとりしてみるというのはいかがでしょうか?特に時期などは決めずに、ふと思い出したとき・書きたくなったときに、お返事いただけると嬉しいです。

さて、文通しよう!と盛り上がった後に、プライベートなところで予想外の展開が発生してしまったため、それが落ち着いてからお手紙を書こうと思っていたのですが、結局しばらくは落ち着きそうもないので、こうしてnoteに向かっている次第です。

誰かと手紙をやりとりするということ

まゆちゃんは、文通をされたことはありますか?
私は、はるか昔の小学生だった頃に、雑誌のペンフレンド募集コーナーで知り合った子や、転校してしまった友達と文通をしていました。雑誌に住所を載せてしまうなんて、今ではとても考えられないですね。

あとは、同級生と交換日記もやっていました。どんなことを書いていたかは全く覚えていませんが、毎日学校で会う友人とわざわざ交換日記をするということは、今思うと、小さな秘密を共有する「チャムグループ」を形成していたのでしょうか。

私自身も中学生の時に転校したので、しばらくは、故郷の友人と手紙のやりとりをしていましたが、数年もすると疎遠になっていきました。それぞれに人間関係も広がり、共通の話題も減っていったことによる自然な流れでした。

定期的なやりとりといえば、年賀状だけで繋がっている友人もいましたが、会えない期間が積み重なるにつれ、年賀状に添える一言もワンパターンになっていき、とうとう昨年末に「年賀状じまい」することにしました。

文字に書いた人の温度が乗るのが、手書きの手紙だとすると、どんどん手紙に触れる機会は減っています。自分の書いた字が好きじゃない私としては、ありがたいことではあるのですが、一方で少しさみしい気もしています。

自分の文字が好きではないといえば、小川糸さんの「ツバキ文具店」は代書屋さんのお話ですが、読んだあとに手紙を書きたくなる物語でした。その中で亡くなった祖母が文通していた手紙が出てきます。大人になった今だからこそ、日常生活と切り離された遠い場所にいる誰かとの手紙のやりとりが支えになることもあるように思いましたし、こうして温度がのった手書きの文字が残ることの、文字以上の価値を感じました。

チャットと手紙とブログと日記と

手書きではなく、テキストという面で見ていくと、X(旧Twitter)、Instagram、discordなど、オンライン上で繋がることができるようになり、チャットやDMで短文をやりとりする機会も増えました。しかしこれは「さみしい夜にはペンを持て」のヤドカリおじさんが言う「泡のことば」なんだろうなと感じています。

もちろん、discordなどで長めの文章を綴ることもありますが、それに対する反応などに返信する際は、喋り言葉に近い感覚で書いている気がします。

それとは別に、noteや個人ブログなどで文章を書く際は「考える」が入ってきます。今もこうして文章を綴りながら、あぁ考えているな~とぼんやり思っています。
noteやブログは、宛先を一人に限定しない手紙みたいなものなのかな?とも思うのです。返事が返ってこない手紙ですね。

私は手帳に日記も書いているんですが、手書きの日記はめったに読み返しません。読み返しづらいんです。文字も汚いし、ただ吐き出すだけのようなものになってしまっています。私にとっては「考える」の途中経過のメモのような位置付けなのかもしれません。

仕事の文章と個人的な文章

さて私は、仕事の中で不特定多数に向けた文章を書く場面があります。SEO対策の特定のワードを入れながら、さらに最後まで読み切ってもらうために簡潔にする必要があります。
そこで最近は、chat GPTさんに分かりやすくリライトしてもらっています。
すると、確かに分かりやすいし、項立てもしてくれるし、簡潔だし、するすると読める文章が出来上がります。

数をこなさなければならないので、二日に一回はこれをやっています。

でもね、楽しくない。

もちろん、仕事だから、というのもありますが。
やっぱり、楽しくない。

そして、成果を考えなくていいという気楽さがあるからという面もありますが、こうやって個人的なnoteを自由に書くのはすっごく楽しいんです。

まゆちゃんの「未来の自分が読み返すかもしれない」という記事を読んで、「困ったときの自分も調子の良いときの自分も、未来の私は知りたいと思うことがあるかもしれない。」という一文にものすごく共感しました。

きっと、未来の自分はこれをおもしろがって読むだろうなと想像することは、書いておこう!というモチベーションになりますよね。

私もそんなことを思って、ブログやnoteを書いています。

文章を書くときにワクワクは必要か

ところで、私は子どものころ、物語を書いていました。ワクワクしながら物語を書いて、某〇〇ゼミの創作コンテストに応募して、自分の書いた短編が掲載されたのを見ては、幸せな気分にひたっていた子どもでした。
だからなのか、文章を書くときには、どうしても書いている時のブワッと湧き出るようなあのワクワクが忘れられないんです。

でも、ライティングという視点で考え出すと、途端に楽しくなくなってしまう私。
特定のターゲットに「読んでもらう」という目的を持って「記事」として書こうとすると、脳の違うところが動き出すみたいな感覚になって、ワクワクが伴わない。
文章の構成とか、ちゃんと型にはめて書く練習をしなければ、と思うと途端に書きたくなくなる。
単に、練習が足りてなくて出来ないから、そこから逃げているだけとも言えるのですが。笑

そもそも、文章を書くときに、ワクワクは必要ではないんですよね、きっと。
でもね、これを書いている今、とっても楽しいんです。
現実では、いろいろと考えなくてはならないことが山積みなんですが、こうやって文章を書いている間は、そこから完全に切り離されて没頭できるんです。この感覚を味わうと、やっぱり文章を書くのが好きだし、もっと書きたいし、上手く書けるようになりたいとも思うわけで。
相反する思いを抱えつつ、結局は好き勝手に独りよがりな文章を書くことしかできずにおります。

毎日noteを書いていたまゆちゃんに聞いてみたいです。
まゆちゃんにとって、文章を書くってどんなことですか?

▼このnoteを送る相手(まゆちゃん)

(リビングに飾られたクリスマスツリーを眺めながら、まだクリスマスプレゼントが決まっていないことを思い出す朝に)チンアナゴのチーより