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足元にはどんな泉が埋まっていますか?

まゆ様

クリスマスプレゼントのような素敵なnoteをありがとうございました。読み終わると、手紙って受け取るとこんなに嬉しいものだったんだ!と胸にほわっとあたたかいものが湧き出てきました。世の中にはいろいろな文章がありますが、不特定多数ではなく、自分という特定の一人のために、時間を使って書いてくれた・・という文章は、まさに贈り物という言葉がピッタリだと感じました。
そして、すぐに返事を書きたくなったのですが、それをぐっと我慢しました。「三往復くらいを目途に」と自分で宣言したので、ここで衝動性にまかせて書いてしまったら残りのチケットが減ってしまう・・というストッパーが効いたようです。

書くということの意味の言語化

まゆちゃんにとっての「書くこと」とは?という問いかけに対してのお返事をありがとうございました。

書くことは、私の世界を創り上げていくことだったな、と。
しかも、それは有機的に人とつながりながら。

私にとってnoteを書くこととは|まゆ

「自分の世界を創り上げていく」そっか、そうだったんだ。

書いている時にワクワクするのは、世界を創造しているから。
だったら、それをメインの目的にしてしまってもいいんじゃない!?

これを書くことでどういう効果を求めているんだろう?なんのために、誰に伝えるために書くんだろう?そしてそれは果たして届いているんだろうか?これに意味はあるのだろうか?とか、よく分からない迷宮に入りこまずとも、自分の世界を創造することにワクワクしている…それだけでいいのかもしれない。

おそらく、まゆちゃんの意図とは違うであろう部分に、私の脳内の何かがピコーンと反応してしまったようです。

ニーチェの言葉

さて、まゆちゃんと私が共通して所属しているオンラインコミュニティのWemakeの一周年記念に、主催のmegさんからオリジナルキーホルダーが届きました。(とってもかわいい♡)
そこにはメッセージカードが添えられていて、一人ひとり違う、ニーチェの言葉が書かれていました。

私のメッセージカードに添えられていたのは

求めるものはここにある

という言葉でした。

きみの立っている場所を深く掘り下げてみよ。泉はその足下にある。
ここではない何処か遠くの場所に、見知らぬ異国の土地に、自分の探しているもの、自分に最も合ったものを探そうとする若者のなんと多いことか。
実は、自分の視線が一度も向けられたことのない自分の足の下にこそ、汲めども尽きせぬ泉がある。求めるものが埋まっている。自分に与えられた多くの宝が眠っている。

「超訳 ニーチェの言葉 エッセンシャル版」

そろそろ、ずっとやりたいと心のどこかで思いながらも蓋をしていたことに目を向けて、自分の足元を掘ってみてもいいのかもしれません。

もったいないから使わない

さて、冒頭で「残りのチケットが減ってしまう」という表現をして、気付いたのですが、どうも私は「もったいなくて使えない」ということが色々なところで顔を出すようです。

遥か昔、私がまだ小さな子どもだった頃、お下がりの服を着ることが多い末っ子で、新しい服を買うというのは特別なイベントでした。
そんな中で、親戚が集まるお正月というのは、まさにハレの日で、新しい服を買ってもらえる数少ない機会でした。新しい服、普段は着れない自分だけのちょっとオシャレな服というのは、子ども心に嬉しいもので「お正月の服」と呼んで、特別扱いをしていました。

もちろんお正月には着るのですが、その後は普段の生活の中で、なかなか着ることができないのです。といっても、式典や発表会などで着るようなワンピースやお出かけ着ではなく、ちょっとだけいつもと違うといった程度の服装なのにも関わらず。

もったいないから。

結局、数回着ただけでサイズアウトしてしまう・・そんなことがよくありました。

結婚するまでの私は、いわゆる「汚部屋」の住人でした。今、思い返してみるとその理由は、物が多すぎたことと、それらの物を管理するということが、私の能力の限界値を超えていたからなのだと分かります。
しかし当時の私は、できない自分・だらしない自分を責めてばかりいました。

子ども時代はサイズアウトという強制的な終了があった服ですが、大人になりサイズアウトがなくなりました。着ていない服に収納を占領され、いつも着ている服が収納に収まりきらずに、部屋中に散乱していました。

物が多い理由は、捨てられないからです。増やすばかりで、減らすということができずにいました。
そして、捨てられないのは、もったいないから。

まだ、使えるから。いつか、使うかもしれないから。痩せたら、着れるから。とっておきのものだから。
そんな風に、使うのを、使い切ってしまうのを先延ばししていたように思います。

結婚し、子どもが生まれ、ライフオーガナイズと出会い、部屋は片付けられるようになりました。それでも、ふとした時にこのもったいないが顔を出します。

使い切ることを恐れない

もったいないから・・と使うことを先延ばしにしているということは、使い切ること=終わりを先延ばしにするということです。
終わりが来ないということは、ずっと夢の途中でいられるということでもあります。

かつて「俺はまだ本気出してないだけだから」という言葉がありましたね。今はまだ本気を出していないだけというのは、自分が本気を出せば結果が出るはずだという夢の途中に居続けられる魔法の言葉でもあります。

自分の実力のなさを突き付けられずにすむ、終わりから目をそらしておける。だから、そもそも向き合うことすらしないようにしておく。

あぁ・・私が自分の足元を掘ろうとしなかったのは、そこにある水たまり程度のかすかな泉と向き合って、夢が終わってしまうのが怖かったんだ。

足元の泉を「そこにあるはず」「いつか使う」と、向き合うことを先延ばしにするために、目をそらして見ないようにしていたのかもしれません。

汚部屋を脱出するために、物を全出しして、一つ一つを分けて選択していったたように、使い切ることを・終わってしまうことを恐れずに、一度すべてを出してしまおう!と、決めました。

このnoteのやり取りは終わりがあると思うと、書くのがもったいないという「終わってしまうのを先延ばしにしたい」気持ちと、「それでも書きたい」という気持ちの落としどころとして、自分の中で「チケットを使うタイミング」を決めたことで、今、こうして書いています。

まゆちゃんの「書くことは、私の世界を創り上げていくこと」という言葉で、書くことに対するモヤモヤから、一歩前へ踏み出すことができそうです。ありがとうございます!

本を読みました

私は、辻村深月さんの初期の頃の作品に心をぐわっと掴まれた感覚が忘れられません。

私にとってnoteを書くこととは|まゆ

この一言をキッカケにして、辻村深月さんの初期の作品を読んでみました。
「凍りのくじら」「冷たい校舎の時は止まる」「ロードムービー」と読んで、今は「本日は大安なり」を読みかけたところです。
どれもおもしろかったのですが、やはり長編はいいですね。辻村ワールドはこんな感じなのか!と今まで触れていなかった作品群に目を向ける機会をありがとうございました。物語の世界にどっぷりと浸かるには、一気に読みたい人間なので、次の長編はまた長期休みの時に手を出してみたいと思います。

推しの作家さんはいますか?
今でなくても以前でも。

私にとってnoteを書くこととは|まゆ

そうですね、若いころは、江國香織さんの作品が大好きでした。
結婚したときに、実家に持っていた本をすべて処分してしまったのですが、そんな中でも「きらきらひかる」と「神様のボート」はその後ふとした時に読み返したくなるので、結局買い直しました。笑
そして、山田詠美さんの「ぼくは勉強ができない」と、ミヒャエル・エンデの「モモ」も、なんだかんだと読み返したくなるので、買い直して以来ずっと手元に置いてある一冊です。

あとは、伊坂幸太郎さんの本はとりあえず読みたくなってしまいます。作品の中では「魔王」が一番好きなんですが、こういう話をする相手がいないので、誰にも話したことがなくて、今、書いてて不思議な感じがします。

好きな本とか、自分の本棚を見せるのって、自分の内側をさらけ出すみたいな、なんだかよく分からない恥ずかしさがあるものですね。でも、このちょっと恥ずかしい感じを見せても大丈夫!と思える相手がいるって、なんて幸運なことなんでしょう。
少なくとも、私の今までの人生においては、あり得なかったことが今起きているんだな・・ということは分かります。

今年は泉を掘り出してみます

恥ずかしいついでに、まゆちゃんに、宣言してみます。
今年は、こどもの頃からずっとやりたかったことを、足元にずっとあった「書きたい」の気持ちを、掘り出してみようと思います。

いや、別に宣言なんてせずに、誰にもバレないように、こっそりと書けばいいんですけどね。たぶん、それだと私は書かない。今までの自分のパターンを振り返ると、絶対やらない。

だから、あえて恥ずかしいことを言います。
書き切ることができたら、読んでもらえませんか?
いざ掘ってみたらカッスカスの泉やったな~という結果になったとしても、相手がまゆちゃんなら、だよね~と自分も一緒に笑える気がするんです。

さて、まゆちゃんに届いたニーチェの言葉は何でしたか?

▼このnoteを送る相手(まゆちゃん)

(これからが新しい一年の始まり!という立春の朝に)チンアナゴのチーより