長命種族と短命種族(1):人生の儚さを知らない人生について
犬や猫を飼われたことのある方ならば、ご存知ですよね。
彼らは人間ほどには長くは生きていられないということを。
十年から二十年くらいの寿命。
彼らより長命を与えられている人間は最愛のペットとの悲しい別れにどうしても出会いざるを得なくなる。
わたしが長い間飼っていたフォックス・テリアの雑種犬は、十三年ほどで天に召されて行きました。
彼がいてくれたおかげで、わたしの人生は大きく変わりました。
彼との暮らしから誰かを本当に愛することを学びました。
女性を我が愛犬ほどには愛したことは、おそらくないかもしれません(笑)。
たったの十数年であっても、一緒に暮らすことができて本当によかった。
今飼っている愛猫も早七歳になりました。
やがては彼女との辛い生き別れを経験することになる。
猫は本当に「寝子」。日がな寝て暮らしている(笑)。
なのですが、お腹が空いたらミャーミャーと甘えてきて、おねだりをする。
ゴロゴロ喉を鳴らす。
英語ではpurr /pˈəː/ と言いますが、英語のオノマトペは実際の音と単語の語呂が全く不一致。日本語のオノマトペは言語学的にも非常に優れている。
別の猫を窓から見れば大騒ぎして走り回る。
そして疲れたら、ひたすら眠る。
そんな猫や犬、ひとよりも寿命が短いのです。
人という生き物は、犬や猫よりも長生きなのであることは意味深い。
最愛の彼らの命を通じて自分たちは自分の寿命についても思いを馳せることになる。
命の儚さについて考えずにはいられない。
人の長命について
摂取する栄養の質の向上と医療技術の進歩のために、長生きできるようになったわれわれ人間は、最近はなかなか身内などの死には出会わなくなりました。
人生百年時代。
生物的にホモ・サピエンスの最大寿命は百二十年なのだそうです。
二百年以上普通に生きるというガラパゴスオオガメなど、探せば人以上の寿命を持つ生物もあまた地球上に存在します。鯨の仲間も百年以上生きる長命種です。
世界の珍記録を記載したギネスブックによれば、百二十二歳で亡くなったフランス人女性が公式に確認される中では最も長生きだったのだそうです。
本当か嘘か、以前ナショナル・ジオグラフィックから学んだことなのですが、十八世紀終わりから二十世紀前半にかけて、あるアメリカ先住民の首長が百二十歳以上生きたという記録も残されています。
最期は人生に飽きてしまったたために食を絶ってこの世を去ったのだとか。
ウィキペディアでは死因は肺炎(Pneumonia)だと書かれていますが、わたしは生に飽いて死を選んだというナショナルジオグラフィックの記述に感銘を受けました。
ジョン・スミスという呼ばれたアメリカ先住民チペワ族の酋長(1822 [1780?]‐1922)という方。
日本語のウィキペディアはないようです。
ジョン・スミスなどという、ありふれた欧米人の名前を与えられていますが、きっと立派な民族由来の名を持ちたかったはず。持っていたのかもしれませんが。
政治的に難しい時代の酋長。きっと欧米的な名前を受け入れたことが一族の存続に役立ったのでは。
137歳で亡くなられたとか。
近代以前の戸籍は曖昧なので、公式には100歳らしいのですが、明らかに百歳以上。
年輪のごとくに刻まれた深い皺は彼の人生の深さを象徴しているかのよう。
不老不死
不老不死を願った人の記録は人類の歴史上に幾度となく見受けられるのですが、本当にそれほどの長生きをして、幸福なのでしょうか。
徐福
古代中国の秦の始皇帝は不老不死の仙薬を求めて、徐福という人物を海の向こうの日本まで送り出したのだとか。
日本に辿り着いたらしい徐福は始皇帝の元には帰ることはありませんでした。そもそも秦帝国はすぐに崩壊してしまったし。
でもいまでも、中国人は現代日本人とは徐福の子孫なのだと信じている。
中華思想の現れです。彼らの感覚では日本は中国の服属国なのですから。
ですが大陸からいろんな人たち日本までがやってきて住み着いたということはDNA的にも事実。
徐福は過酷な中国大陸を抜けだして自然豊かな日本列島に馴染んでしまった渡来人の象徴なのかも。日本に来た中国人はたいてい帰りたくなくなってしまう。
誰でも知っている平安時代初期に書かれた「竹取物語」、つまり「かぐや姫」のお話にも不死の薬は出てきます。
人は不老不死を太古の昔より求めてきたのでした。
不老不死らしい「かぐや姫」は月の世界へ帰ってしまわれて、月の遣いの乗り物に戻られた途端、地上でのことは一切忘れてしまわれたのだとか。
ある意味、永遠の命とは死後の永遠の眠り、天国における、幸福な暮らしなのかもしれません。
八百比丘尼
日本には他にも八百年生きたという女性の伝説があるのですが、彼女の名は八百比丘尼。
「はっぴゃくびくに」とも「やおびくに」とも呼ばれています。
人魚の肉を食べたがために不老不死になってしまった女性の悲劇の伝説は日本各地に残されているのだそうです。
人魚の肉を食べた十六歳の頃のままの若い容貌を保ち続けていつまでも保ち続けていたという彼女。
大事なのは永遠の若さ=不老という要素。
奈良時代から室町時代まで生きていたのだと記録には残されているのです。
何百年も生きた女性の生涯が悲劇なのは、冒頭に書いた犬猫を飼う我々と同様に、愛するものと何度も何度も生き別れを経験することになったからです。
愛する伴侶を得ても、夫や子どもたちは確実に自分より先に亡くなってしまう。
子供たちが老いても自分は老いることはない。
子供たちはすぐに自分の生物的年齢を超えて行ってしまう。
愛する者と生き別れるばかりの人生。
七度ほど結婚したのだとか。
比丘尼は世を儚んで、最後には洞窟に籠ってしまう。
入定といわれる仏教行為。
仏教的な悟りを得ることで死ねるであろうと願って、その後は消えてしまったのだとか。
彼女の伝説はフィクションの格好の題材で、手塚治虫の「火の鳥」や高橋留美子の「人形シリーズ」がよく知られています。
そもそも「火の鳥」は生き血を飲めば不死になるお話。不老ではなく少しずつ老いてゆくのですが。
高橋留美子の作品は彼女の描く最良のダークファンタジー。
極めてシリアスでグロテスクな物語。深く人間の情愛と業を考えさせられる名作悲劇です。アニメ化もされています。
比丘尼の物語の教訓は、自分一人生きながらえても、幸福はどこにもないということ。
誰かを本気で愛しても、たとえ猫や犬でも、自分の方が長生きならば、とても悲しい別れを体験せざるを得なくなる。
老いるのが常の人の世で、いつまでも容姿が変わらなければ、永遠の若さを失わないがために、人間ではない化け物だと呼ばれるようになる。
ひとは異質な存在を排除する。
到底、自分独り、長生きしても、幸せには生きてはゆけない。
でも自分が幸せで生きるのが楽しくてたまらないひとは、秦の始皇帝のように浅はかにも永遠の命を夢見てしまう。
限られた命だからこそ、
青春期の人生初めての体験という15歳の幸福があり、
壮年期の40歳の人生への自信にあふれた幸福があり、
また老年期に達した70歳の人にしか体験しえない深い幸福がある。
不老不死はそうした全ての幸福の否定なのです。
八百比丘尼ほどに不幸だった女性は数少ないはずです。
機械人間
全くのフィクションですが、松本零士の超名作「銀河鉄道999」をご存じでしょうか。
わたしの子供のころの1970年代の後半、「スリーナイン」のテレビアニメや映画は日本中で一世風靡していました。
永遠の命を獲得できるという機械の体を得るために、不老不死を求めて宇宙を旅する物語です。
永遠に死なない体を求めて、機械人間になるために、主人公の少年星野鉄朗は999に乗って謎の美女メーテルに導かれて宇宙の旅をします。
そして幾多の出会いと別れと争いの果てに鉄朗は、人間の命は限りがあるからこそ尊いのだという真理に辿り着く。
短くてはかないからこそ、今ここにある瞬間は二度と戻らなくて、意味深い。
終わりがあるからこそ、人生はどんなものにも変え難いのだと。
物語の最後、絶世の美女の姿をした(実は鉄郎の母親の生き写し)不老不死のメーテルは生身の体に戻る決心をする。
生きるってそういうことなのだと思います。
自分もまた死んでゆく存在だからこそ、枯れて萎れてゆく花の美しさに共感できる。
美しさを誇れるときは本当に短いのです。
永遠に生きていたとすれば、沈んでゆく夕日に感情移入したりすることもない。
赤く燃え上がって消えてゆく夕日にわれわれは自分自身の命の儚さを重ね合わせることができるからです。
きっと「美しい」とは何であるのかわからなくなる。
いつだって美しいものは儚いものなのだから。
わたしがモーツァルトの音楽をクラシック音楽のなかで何よりも愛するのは、モーツァルトの音楽の「儚さ」ゆえ。
同時代人のハイドンやベートーヴェンの音楽には人生肯定要素が強すぎて、まったく儚さが足りない。
彼らの人生は充実しすぎていた。
特にハイドンなんて不老不死なひとがいつまでも人生を楽しく生きるのに最適な音楽。長生き出来たら、毎日聞くべき音楽。
仮にわたしが不老不死になることができるとすれば、不安と緊張で張りつめた短い人生を送ったモーツァルトの音楽のあまりに繊細な儚さをうたい上げる音楽表現に一ミリも共感できなくなってしまうことでしょう。
人よりも長命な種族
SFではなく、ファンタジーの世界では、人ではない人類に似た姿の種族が登場します。
科学的にも人類という生物にはいくつかの亜種が存在していたことが知られています。
デニソワ人や北京原人やネアンデルタール人という人類の仲間は、数万年前までは確実に実在していたことが発掘された遺骨から科学的に証明されていて、彼らの寿命もまた、われわれホモサピエンスとは異なるものだったのだろうと考えられています。
ネアンデルタール人のDNAを検出してゲノム解析を成し遂げたペーボ博士はノーベル医学生理学賞を受賞しました。ついでもデニソワ人も。
ネアンデルタールDNAはアジア人やヨーロッパ人に受け継がれていて、デニソワ人DNAはオーストラリア先住民族らに受け継がれています。
すべてのホモ・サピエンスの母はアフリカ大陸の黒人種で、真っ黒い肌の純正アフリカ人にはネアンデルタールDNAは含まれてはいないのだそうです。
人類のヴァリエーションの多彩さの原因がある程度、これで説明できるようになったことは本当に画期的なことでした。
ホモ・サピエンスとネアンデルタール人との遺伝子的な違いは0.5%以下。
類人猿チンパンジーとの差が1%なのと比較することで、ネアンデルタール人がどれほどにわれわれに近い存在なのかがわかります。
素晴らしい洞窟画を遺した芸術家気質の非社交的なネアンデルタール人は自閉症的だった可能性があるという仮説は非常に興味深い。
フィクションの世界では
ファンタジーの世界では、ドワーフやホビット、エルフという人間ではない人間のような存在が、いまではごく当たり前のように存在していることをご存知ですよね。
一般にオークやトロールのような人型をした、人らしい思いやりや知性を持たない存在は亜人=デミ・ヒューマンと呼ばれているのですが、人間以上の高度な知性を持つとされる人型種族の場合はそうではなく、人類の一種らしいのです。
世界観の相違や個々の物語の設定などから、物語の中の彼らの性質や寿命などもいろいろ変わってくるのですが、人よりも長命な種族であるエルフやホビット視点の物語が作られていることが意味深い。
長命な種族は、短命種である人間のことを、われわれが短命の犬や猫を憐れむのと同じような上から目線で眺めるのです。
長命種族と短命種族
ゲームや漫画のファンタジー世界をほぼ完璧な形で体系化したのは、1930年代のイギリスのJ・J・トールキンでした。
トールキン以前からエルフなどはヨーロッパの神話や伝承に絶えず語られ続けていたのでしたが、エルフがこれほどまでに知られるようになったのは、まさにトールキン教授のおかげです。
教授はルーン文字など北欧の失われた文字や神話や伝承の研究家で言語学者でした。
彼の趣味は架空の言語を作り出すことでした。
しかしながら、世界で彼の趣味を理解できた人はどれほどいたことか。
そんな彼は、こんな面白い言語が存在しているならば、こんな種族が生まれたに違いないという仮説を立てて、作り出されたのがトールキンのエルフたち。
文法と語彙を持つ言葉を生み出したことが最初だったというのが興味深い。
だからトールキンの作品には不思議な言葉が幾度となく登場するわけです。
「ホビット」と「ロード・オブ・ザ・リング」はファンタジーフィクションの不滅の古典。
エルフという超常の種族をトールキンが明確に定義したことは非常に意味深く、トールキンの定めたエルフの姿が、その後の現代のファンタジーゲームやフィクションのエルフの原型となったのでした。
ちなみに長寿種族は外見的に、特徴的なとんがった耳をしていることから、短命な人間たちと一目で区別されます。
「ホビット」の映画などでは、エルフ戦士のレゴラスが何度もエルフ語を披露してくれますが、ここでは本家本元のトールキン先生自身の肉声でどうぞ。
トールキンはエルフ語が大好きなのでした。誰にも通じないのに。
さて、エルフです。
エルフは不老不死。また設定によっては寿命数千年。
だから老いたエルフもいれば、まだ若々しい年齢数百年の子供やティーンのエルフもいるわけです。
そして数千年を生きて、生きることに飽きてしまったエルフは、戦士となって戦場に赴いて雄々しく戦い、死んでゆく。
エルフは心臓を剣で貫かれるなどの名誉の負傷を負えば、そのまま死んでゆくこともできる。
この点で、胃の腑を刺されても心臓を突かれても死ねない、崖から飛び降りても死ねない、呪われた八百比丘尼と異なりますね。
わたしはトールキンの映画の原作「指輪物語」を大学生のころに日本語で読んで、エルフたちの終わりのない人生の虚しさにひどく感銘を受けました。
エルフらが一概に名音楽家でたいへんに音楽を好みますが、モーツァルトのようなドラマがある音楽ではなく、映画の中のエンヤの音楽のような果てしのない音楽が好きなようです。
情緒あふれる劇的な音楽をきっと不老不死のエルフは理解しない。
家族を作って子孫を反映させることを忘れるほどに長寿を利用して工芸品を作ることに夢中になったドワーフたちにもひどく共感しました。
トールキンは彼らは芸術創作に夢中になるあまりに家庭を持つことを忘れてしまったのだとか。だから子孫がいなくなってしまったのだと。非常に興味深い。
少子化の時代のわれわれには耳が痛いかも。ある意味ワーカホリック。
人知を超えた技術によって生み出されたドワーフの芸術品は、あの長寿があってこそ可能だというのです。
トールキンの定義したエルフやドワーフたちの存在は哀しい。
煙草をふかして腹いっぱい食べて、毎日が楽しければそれでいいという、小人族のホビットとは大違い(笑)。
だからこの物語にユーモアが生まれる。
そんなホビットが、優秀な技術者ドワーフや音楽詩人のエルフにはできない、世界の破滅を救うという使命を果たすのですから。
ホビットが人の心の欲を操って支配してしまう邪悪の指輪を地の果てまで捨てに行くというのが「ロード・オブ・ザ・リング」。
欲望に囚われにくいという、無欲なホビットの性質のために、あの過酷なミッションに選ばれたのでした。
映画よりも原作を読むと、この辺の事情がよくわかります。
収集大好きの欲深ドワーフ、現世に飽いて上から目線でしか世界を眺められないがために権力争いという暇つぶしに明け暮れるエルフならば、あのように誰かのために必死にはなれないのですから。
ここまでで七千字。
長すぎるので続きはまた次回に。
次は不老不死を語る日本の秀逸なファンタジー、「風の谷のナウシカ」「葬送のフリーレン」「さよならの朝に約束の花をかざろう」「ダンジョン飯」「鬼滅の刃」などを考察して、不老不死という概念の意義について考えてみます。