アニメになった児童文学から見えてくる世界<4>:日本化される外国文学
十年ほどの中断を挟みながらも三十年以上もの年月をかけて放映された世界名作劇場は総数二十六作ほどを数えるそうですが、原作は日本以外の国で書かれた作品ばかり。
自分にとっては子供の頃に世界中からの素晴らしい児童文学をアニメにおいて親しむことができたことは本当に貴重な体験で、のちにわたしが日本文学よりも外国文学に、日本の音楽よりも西洋古典音楽に、そして長じては外国に移住して暮らすようになったのも、おそらく子供の頃に見た世界名作劇場の刷り込みのためではないのかなとさえ思えます。
共働きの両親は就学前の幼い自分にアニメを見せてテレビに子守をさせて、小学生になってもいわゆる鍵っ子で、一人で世界名作劇場の再放送などをよく見たものでした。
世界名作劇場の前作とされる「アルプスの少女ハイジ」(1974年) に出てきた溶かしたチーズを乗せた厚切りパンや山羊の乳などに子供の頃は憧れました。今では毎朝そうしたものを普通に食べれる暮らしをできているのは夢が叶ったのだと言えるのでしょうか。
しかしながら大人になって子供と一緒に自分が小さな頃に見たアニメを見直すと驚くべき発見を見つけて非常に興味深いものでした (子供ができるともう一度自分の子供の頃に体験したことを改めて体験することができるのです)。
外国に長年暮らして外国語ばかりを喋っていると、自分がどんどん日本人でなくなってくるものです。外国的な感覚を身につけて、外国風の生き方を普通にするようになると、日本文化的な生き方がだんだん窮屈になってきます。
日本社会の人間関係の複雑さは日本に住む誰もが認めるものではありませんか? 外国には外国の難しさがありますが、人と人との間の距離感が違います。
日本社会は欧米化されてきていると言われますが、日本文化の本質である「和をもって尊しとなす」などからくる空気の文化や、清貧を尊びお金儲けを蔑む文化的風土などはいつまでもなくなりません。
そこでアニメですが、世界文学が日本文化に輸入されると翻訳されます。翻訳は間違いなく翻訳者による解釈で、文化的に翻訳不可能な概念は非常に説明的に訳すか、日本文化の文脈に沿うように意訳されないといけません。優れた翻訳とは意訳されたもの。
原文に忠実な訳文は逐語訳として、こなれていない文と呼ばれて嫌われますが、ああいう翻訳はまさにオリジナルに近いのです。でもそのままでは理解できない。
翻訳とは解釈。
そして世界の児童文学も日本的に解釈されたもの。
「赤毛のアン」(1979年) のアニメ版では英文学文献や聖書からの引用はほとんど割愛されています。最後のブラウニングの引用は原作そのままで素晴らしかったですが。この有名な詩。
「ハイジ」の原作では最も重要なエピソードである、アルム爺がハイジの読む聖書ルカ福音書の「放蕩息子」のくだりは完全に削除されています。
ペーターは歩けないクララの車椅子を嫉妬に駆られて故意に壊してしまうのですが、のちに告白して許されます。そうした宗教的に意味深い部分は全てアニメからは失われています。
「アルプス物語わたしのアンネット」(1983年) はキリスト教児童文学が原作なのですが、ノアの方舟の模型だとかよく知られたエピソードはそのまま採用されていても、大事なキリスト教のメッセージは日本的な解釈をなされて原作らしさは失われています。
「南の虹のルーシー」(1982年) という作品では、原作が完結しない状態でアニメ化が決まったという経緯もあり、また原作物語はアニメほどの深みは全くないものですので、完全に日本化されたオーストラリア移民物語となっています。
例えば英国人の話であるのに、仲の良いポップル家の人たちはお互いに全くと言っていいほどキスをしないし、ハグもしない。熱心なクリスチャンでもないのに(いやだからこそ?) やたら清貧を重んじていて、自分のした親切の金銭的代償をもらうべきなのにもらわない。恋人同士のクララとジョンも離れ離れになる場面でようやく出会えても手も握らない。
食事前にいただきますというのは良いとしても(お祈りをしないポップル一家) とにかく英国人の生活にしては非常に違和感のある世界で、NHKの朝ドラを思い起こさせる展開が毎回繰り広げられているかのよう(その分脚本は日本的によく書かれていてアニメオリジナルの終盤は感動的です。悪者のペティエルさんも最後まで中途半端な悪人のまま物語は終わるのです)。
わたしはもう人生の半分以上を祖国以外の地で過ごしてきた人間です。
SNSの時代になり、こうして日本のサイトであるNoteに創作や日記のような音楽エッセイを毎日投稿しているのですが、母語でこうして書いても、わたしの言葉は日本の人には届いていないのかもしれないと思うこともしばしばです。日本の方の書く投稿を読み、心と心の距離の遠さを実感することもありますが、好きなものを語らえる喜びも同様に実感します。
時々文化的な違いに阻まれて (日本の方の書く文章は非常に婉曲的で抑制が強い) 気持ちが通じ合わないなあと思うこともありますが、好きなことを語り合う喜びは万国共通です。
好きな本や音楽やアニメや映画を語らうことのできることは素晴らしい。だからわたしはNoteに日記のようなエッセイを毎日書いています。時々いただける真摯なコメントはとても嬉しい。
でも他のSNSと異なり、程よい距離感がこのNoteでいただけるコメントにあるのが良いですね。これも日本的なのかな。
世界名作劇場のアニメは輸出されて世界中の言語で世界中の子供達に愛されていますが、日本文化的な部分はよく改変されて放映されるようです。あまりに文化的に違いすぎるハイジはスイス本国ではテレビ放送は見送られたそうです。改悪が酷すぎて放送不能なのだとか。日本でこれほどまでに人口に膾炙しているアニメなのに。
ベルギーを舞台として英国人によって書かれた「フランダースの犬」(1975年) はベルギーでは大変に不人気。ベルギー人は自分たちはあんなにも不人情ではないと言われます。当然でしょう。ベルギー人の全てがあんなにも子供のネロに冷たいわけはありません。英国人のベルギー人への偏見に満ちた作品というのがベルギーにおける評判です。
いずれにせよ、世界中に同じアニメや物語を好きでいる人たちがたくさんいることは素晴らしい。好きなアニメを共に語らって違いを楽しく議論したりできるといいですね。
日本人は議論が苦手だと言われますが、共感を求めすぎるかなだと思います。Agree to disagreeという態度で「みんな違ってみんないい」を忘れてはいけません。みんな違うのが当たり前、そんな違う人たちが同じものを好きでいられる、なんて素晴らしい。そんなふうでありたいですね。
Serenpitiousな出会いなのかも。
偶然な思いもしなかった素晴らしい出会いのことです。
この投稿を読んでくださっている、あなたとのnoteにおける出会いも、そんなふうであってほしいです。
そんなことを思いながら日曜日の午後を過ごしています。