ロマン主義音楽の憧れ:知られざるドイツロマン派の大作曲家ファニー・メンデルスゾーン(1)
大学生の頃にドイツ語を三年間も勉強したのは、ヨーロッパのクラシック音楽が大好きだったからでした。
若い頃に学んだドイツ語の歌曲はわたしのアオハルな時代を何よりも象徴する音楽です。
ビートルズよりも、ビリー・ジョエルよりも、スピッツよりも、尾崎豊よりも、シューベルトやシューマンやマーラーの歌曲がわたしのアオハル音楽なのです。
青春という古風な言葉は使わないことにします😌。
欧米とは異なり、日本のクラシック音楽ファンは若い男性が中心です。
多くの場合、彼らが夢中になるのは交響曲。
ブルックナーやマーラーなどにとち狂うのが日本的なクラシック音楽受容の最もスタンダードな在り方です。
オペラは無視、交響曲中心なのが日本のクラシック。
そして年季が入るとクラオタのおじさんになるのです🤭。
女性の場合はピアノやヴァイオリンなどの楽器演奏経験がクラシック音楽の洗礼となることがほどんどなので、サロン音楽のショパンが最も崇められます。
したがって、ピアノ好きが嵩じてクラシック音楽を好きになった女性はあまり交響曲は聴かないものです。
ブラバン経験者の女性は少し違った好みの傾向があるかもしれませんが、やはりブルックナーやマーラーを好むまでには至りません。
クラシック愛好家の男女の嗜好に顕著な違いがあることは非常に興味深い。
わたしの長年の観察による私見ですが、多くの方に同意していただけるのでは。
もちろん例外的な方もきっとどこかにおられますが、「乙女の祈り」が大好きな中年男性や、ブルックナーの「テ・デウム」を愛する中年女性はわたしには想像しがたい!
さて御多分に漏れず、わたしも何十枚もCDを集めるほどに後期ロマン派の交響曲によく親しみましたが、最も好きだったのは、リート、リーダーと呼ばれるドイツ歌曲でした。
「スミレ」「春への憧れ」「夕べの想い」のモーツァルト
「君を愛する」や歌曲集「遥かな恋人に」のベートーヴェン
「水の上にて歌える」や「トゥーレの王」、三大歌曲集のシューベルト
「ミルテの花」「詩人の恋」「リーダークライス」のシューマン
「歌の翼に」「新しい恋」のフェリックス・メンデルスゾーン
「メロディのように」「子守歌」のヨハネス・ブラームス
「ミニヨン」「メーリケ歌曲集」のフーゴー・ヴォルフ
「子供の不思議な角笛」「リュッケルト歌曲集」のグスタフ・マーラー
「明日の朝」「献呈」のリヒャルト・シュトラウス
思いつくままにいくらでも書いてゆけますが、書き切れないほどに思い出深い曲がたくさんあるのです。
シューベルトの「冬の旅」は、わたしのドイツ語の個人的な教科書でした。
そのように思い出深いドイツ芸術歌曲なのですが、最近最も心を奪われている歌曲を書いた作曲家はフェリックス・メンデルスゾーンのお姉さんであるファニーです。
音楽に<女性的><男性的>のレッテル張りは推奨されるものではありませんが、ファニーの音楽には女性であることの哀しみが深く表明されているように私には思えるのです。
それはファニーが19世紀という、まだ女性が社会的に男性と同じように活躍することが許されなかった時代の人物だからです。
女性という理由だけで、彼女は作曲家として公に活動することは許されなかった彼女は、450曲以上にも及ぶ作品を遺したといわれています。
ファニーの作品の多くはピアノ小品や歌曲ですが、近年発掘された作品の中には、フェリックスに勝るとも劣らぬ大規模なカンタータや室内楽、ピアノソナタ、それに管弦楽序曲さえあります。
最晩年に夫ヴィルヘルム・ヘンゼルや弟フェリックスの協力を得て、歌曲集が作品1、ピアノ小品集が作品2として出版されましたが、作曲家としての公的な活動を本格的に行おうとしていた矢先に脳卒中で急逝。
姉の意志を継いで、ファニーの遺作出版に取り組んだ弟フェリックスも一年もしないうちにファニー同様に脳卒中で急逝(したがって脳卒中の引き金となったかもしれない過労死説、遺伝病説あり)。
いまだ全貌が明らかにされていない大ロマン派作曲家がファニー・メンデルスゾーンなのです。
ファニー・メンデルスゾーン=ヘンゼル(Fanny Mendelssohn=Hensel 1805-1847)
メンデルスゾーン家はユダヤ系。
ファニーやフェリックスの父方の祖父モーゼスは、高名なユダヤ啓蒙主義運動の哲学者。
母方の祖母はベルリンのユダヤ大資産家イツィヒ家のベラ・サロモンでした。
彼女はフェリックスの歴史的なバッハ「マタイ受難曲」復活上演の陰の立役者であり、サラの妹はバッハの長男ヴィルヘルム・フリーデマンの弟子サラ・レヴィでした。
二人のことは以前にこちらで詳細に紹介しました。
バッハの次男カール・フィリップ・エマヌエルが好戦的なプロイセンのフリードリヒ大王に仕えていたことは有名ですが、名付け親テレマンが他界したとき、テレマンが長年勤めていたハンブルク市音楽監督の地位に着きます。
サラを教えたフリーデマンがベルリンに住むようになったころにはエマヌエルはハンブルクにいて、兄弟が一緒にベルリンに暮らしたことはありませんでした。
ですが、古楽をこよなく愛していたサラはエマヌエルの死後、遺族によって競売にかけられたエマヌエルの楽譜の大部分を購入してベルリンへ持ち帰ります(彼女もユダヤの大金持ちでした)。
同時にヨハン・セバスティアン・バッハの楽譜も大量に買い集めています。
そういう縁からサラ・レヴィの姪レア(ファニーとフェリックスの母親)は三人のバッハ(セバスティアン、エマヌエル、フリーデマン)の音楽に囲まれて育ったのです。
バッハの音楽が死後忘れ去られてしまっていたというのは都市伝説のようなものです。
テレマンやヴィヴァルディは実際に死後すぐに忘れ去られましたが、バッハの音楽は一部では常に演奏され続けていたのです。
プロ顔負けのピアノ演奏技術を持つほどに至っていたベルリンのレアは、ハンブルクのユダヤ人銀行家アブラハム・メンデルスゾーンに嫁ぎます。
1804年12月のこと。
しかしながら、19世紀欧州史を揺るがす大事件、ナポレオン・ボナパルトのフランス皇帝戴冠式もまた、同じ1804年12月のことだったのです。
神聖ローマ帝国の自由都市ハンブルクは、海の向こうのイギリスとの貿易で栄えていましたが、ご存じのように皇帝ナポレオンは仇敵英国を苦しめる目的で大陸封鎖令(ベルリン勅令)を施行、英国との通商は途絶えてハンブルク経済界はナポレオン戦争の直接的な犠牲者となります。
ハンブルク市は経済状況が悪化。
事態はハンブルグ市がユダヤ人に対する経済政策を行うことを議決するまでに至ります。
ハンブルクのユダヤ人銀行家アブラハム・メンデルスゾーンはレアの実家があるプロイセン王国の首都ベルリンに移住を決めます。
1811年、ファニー6歳、フェリックス2歳の頃のこと。
ベルリンではメンデルスゾーン姉弟は二人そろって、ベルリン音楽界の重鎮カール・ツェルターのベルリン・ジング・アカデミーの合唱団に参加。
神童として、二人とも作曲家ツェルターに愛されて、音楽理論(作曲)と指揮法を個人的に教えられるのでした。
ファニーは13歳にして、バッハの平均律クラヴィア曲集の前奏曲の全てを暗譜していたのだとか。そんな四つ年上のお姉さんの影響を受けていたのが9歳の弟フェリックスでした。
二人はとても仲が良かったのです。
よく言われることですが、フェリックスはシスコンでした(笑)。
指揮に関してですが、ファニーは世界最初の女性指揮者だったのかも(次回以降に語りますが、メンデルスゾーン家には私設管弦楽団があり、四人姉弟の年長のファニーが音楽監督のような役割を果たしていました)。
ファニーとフェリックスの差別化
弟フェリックス・メンデルスゾーンを何もかも満たされていた人だったとわたしはよく表現しますが、フェリックス同様に物質的に何不自由のない幸福な環境で生まれ育ったにもかかわらず、お姉さんファニーの音楽には、フェリックスが決して表現することのなかった深い陰りが認められます。
大資産家の深窓の令嬢は「女であること」に苦しめられました。
女性であるがゆえに、天職である作曲家として、公に活躍することは許されませんでした。
そういう時代だったのです。
ファニーは弟フェリックスが二年にも及ぶ欧州中を旅するグランドツアーに出かけたとき、ベルリンの父親の大邸宅で旅先のフェリックスから手紙を受け取る役目しか許されなかったのです。
ヴォルフガング・モーツァルトの姉ナンネルは神童姉弟として欧州中を旅しましたが、大人の年齢とされる15歳になると、ヴォルフガングが大きな飛躍を果たすことになるイタリア旅行には連れて行ってはもらえませんでした。
ザルツブルクのナンネルも、異国から送られてくるヴォルフガングの手紙を読む役でした。
このように男女の役割が社会的に厳格に区別されていた時代のお話です。
ナンネルの時代(1760年代)とファニーの時代(1820年代)には半世紀以上の隔たりがありましたが、女性の社会的役割はほとんど変化していなかったのです。
しかしながらファニーはそのような社会的抑圧には容易に屈せずに、自作を弟フェリックスの出版作品の中に忍び込ませます。
もちろん弟フェリックス公認ですが、世間的に女性、特に資産家令嬢が男のように作曲をして、男のように出版することははしたないことだと見做されていたので、彼女の作品は弟の名前で出版されたのです。
フェリックスの歌曲集(作品8と作品9)の中に含められていたファニーの作品(全六曲)がフェリックスのものではないと判明したのは、姉弟の死後に大作曲家メンデルスゾーンの作品が研究され始めてからのことでした。
フェリックスの歌曲集の中のファニーの作風はやはり相当に異質です。
フェリックスの歌曲集作品9-7の「憧れ」
例えば、作品9の7として出版された、ファニーの作品「憧れ」。
この歌には幸運児フェリックスが決して表現することのなかった抑圧された魂の叫びのようなものが赤裸々に描き出されています。
フェリックスにも憧れを思わせる音楽はあります。
名作「歌の翼に」のなかで歌われる憧れが、まだ知らない遠い知らない世界を見てみたい行ってみたい観光してみたいというような明るい憧れであるのに対して、ファニーの憧れは、この不自由な世界から抜け出したいという痛切な願いから出てくる遠い世界への憧憬なのです。
ファニーの歌曲「憧れ」は、ローベルト・シューマンの歌曲のように、不安と悲しい存在である自分自身の存在への諦念の音楽です。
ロマン派の中のロマン派と呼びたくなる名品。
同じ先生であるカール・ツェルターから作曲を学び、同じような環境で音楽を学んだにもかかわらず、姉弟の作風はあまりにも違うのです。
クララとローベルト・シューマンの二人の作品が著しく酷似しているのとは対照的です(愛で結ばれた二人と、同じほどの天賦の才を持ちながらも男女差で不当に差別された二人の違い?)。
ファニーの「憧れ」は、シャープ二つの調性で始まりますが、最初の和音はロ短調。
調性が曖昧であるのはロマン派音楽の典型ですが、ホームキーのニ長調になってもロ短調に揺れて、8小節目にようやく落ち着いても、ここですぐにト短調に翳り、すぐにニ短調へと転じて、イ長調を経て、最後にようやく、ニ長調として曲は終わるのです。
調性音楽の基本は、主調(ニ長調)で始まって近隣の調性(イ長調やロ短調など)に転調して主調に戻るというものです。
定型とは微妙にずれているファニーの音楽。
たった19小節の中の儚いドラマ。
歌曲なので曲は最後の小節にたどり着くと、すぐに最初から繰り返されて、音楽の色調は巡り巡って、いつまでも落ち着くことはないのです。
フェリックスが決して書かなかった音楽といえるでしょうか。
「儚い」という言葉はフェリックス・メンデルスゾーンには似合いません。
ファニーの作品は、むしろ夢幻的な音楽の大家ローベルト・シューマンのものだと言われても疑うことがないであろう名品です。
ファニーの作品に認められる、シューマンに通じるほどの深いロマン主義的傾向が「女性であることの情念」であるかどうかは誰にもわからないのですが、シューマンやショパンと同じほどに人生に苦しんでいたのがファニーでした。
経済的にどれほどに裕福であっても、彼女の自己実現欲求は決して充たされることはなかったのです。
シューマンしかり、ショパンしかり、鬱屈した想いこそがロマン派音楽の原動力なのです。
2:「英国女王が愛したファニーの歌曲」に続く