大好きな落語が滅びてしまうのならば、心中してしまいたい: 昭和元禄落語心中
新しい漫画に出会う機会があり、大変に気に入りました。
KindleやEbookジャパンなどでは最初の二巻は無料配信中。
落語という古典芸能がこれから廃れゆくのならば、自分の死と共になくなってしまっても構わないという思いを持つ名人と、その名人の落語を次の時代までも引き継いでゆかんとする弟子と周りの人たちの物語。
だから物語の題名は「昭和元禄・落語心中」。
昭和の激動期の歴史小説のようにも読めますね。
わたしは全然知らなかったのですが、大変な名作として知られているそうで、こうして出会えたことに感謝です。
アニメにもなっていますが、声優さんは落語家でもないのに、アニメの高座で、まさに落語家に憑依して何役もの役を声だけで見事に演じ切られている。素晴らしいアニメですので、原作を読み終えてから、ぜひみてみようと思っています。
このアニメ版の凄さを一度、ご覧になってください。師匠が死んでからの初舞台、死者を温かく追悼して懐かしむ気の利いた人情噺など演じることのできない、のちの大名人が演じるのは「死神」。
落語とは笑いばかりではありません。背筋の凍り付くような怪談です。英語字幕付き。
落語という古典芸能
わたしは落語に特に興味を持っている人間ではありませんが、その昔 (2007年), NHK朝ドラを見る暇のあった、いまよりも若い頃に、貫地谷しほりさん主演の「ちりとてちん」が大好きでした。
大変に感動して、上方落語に興味を持ちました。
A子やB子といった主人公の生い立ちなどのサイドストーリーだとかにはあまり興味はなかったのですが、女性にも関わらず、師匠に弟子入りして頑張るドジっ子な主人公の演技にはとても共感しました。
ちりとてちん=酢豆腐という演目、それ以来大好きになりました。
調子に乗って、「寿限無」の長い名前をそれ以来、丸暗記して、今でも早口で言えるほどです。
英語の落語
最近は、江戸文化を言い表す最良の言葉である日本語でしか演じられぬはずの落語を、英語で上演しようという試みも行われています。
このカナダ人の桂三耀さん(Katsura Sunshine)の英語落語、堪能いたしました。
落語家とは Rakugo Comic Storyteller なのだそうです。
下の動画、時事ネタで、Vaccination = Waxination 😆。これを瞬時にクスリと笑えるならば、あなたの英語センスはかなりなものです。分からないと通じないと「さむ〜く」なりますが、それもまた、ご愛嬌ですね。
Pupil は生徒という意味の他にも、目の中の瞳という意味もあります。これ分からないと英語で笑えない。このような掛け言葉を駆使して、桂三輝は英語で落語を見事に成立させています。
英語力が足りないと笑えないのは、日本の古典芸能の落語を理解するには、高度な日本語理解能力が必要であるのと同じこと。
翻訳は解釈ですので、必ず意訳を伴うものですが、よく古典落語を英語に置き換えたものだと感心しますよね。
字幕の日本語と英語の微妙なニュアンスのギャップを味わうことも、なかなか乙なものです。
英語で語られる寿限無が新鮮で素晴らしい。歯切れのいい英語が気持ちいい。Katsura Shunshineさん、素晴らしい。
昭和元禄落語心中の語る古典
というわけで、アニメではなく、この漫画原作について少し語りたいのですが、ネタバレしないように大筋には触れません。
そんな中で特に感銘を受けたのは次の三つの場面(まだ全十巻読み終えていません。現在は6巻途中まで)。
(1) 文化の寿命
娯楽は半世紀で非大衆化して古典となる。なかなか含蓄の深い言葉。
例えば、大衆のための低俗な新しいダンス音楽と考えられていたジャズ。
1910年代から熱狂的な大衆の人気を得て、ビッグバンドがダンスホールで大活躍。トロンボーンやトランペットの咆哮の魅力はたまりません。
ジャズが大衆芸能だった頃のビッグスウィングジャズ!
2:13からは「ちりとてちん」の貫地谷しほりさんによるトランペットソロ!
のちにジャズは天才チャーリー・パーカーなどによる革新によって、音楽を専門的に聴ける耳を持った人にしか理解できない高度な音楽となってしまいますが、本来はこんな風なだれでも理解できた「楽しい」音楽だったのでした。
愉しいジャズが失われたのは、アドリブに特化した難解なビーバップジャズの登場する1950年代頃から。そして1960年代にはジャズは古典となります。まさに「文化の寿命」そのもの。
そして、もはや大衆のものではない、特定の愛好家のためのものに成り果てました。
18世紀後半の西洋古典音楽もベートーヴェンの頃から大衆から乖離した音楽へと変容して、19世紀半ばには、芸術的音楽と大衆的音楽は完全に別々の道筋をたとるようになりました。
他にもいろんな例が思い浮かびますが、ここでは割愛。
さて、300年の歴史を誇る古典落語は今もまた、大衆である我々は解説なしに理解できますか?
我々の暮らしは江戸時代のそれとあまりにも変わり果ててしまって、和風文化そのものが危機に瀕している。畳がないことが今の日本の家では当たり前。江戸時代も畳など、お金持ちだけのものでしたが、あまりにグローバル化した日本人の暮らしから、落語の世界はなかなか見えてこない。
わたしはクラシック音楽を「勉強」して好きになりました。古典ってそんなもの。落語も「勉強」されるもの。
でも「勉強」すると、その奥深い世界に入り込んでしまい、一生抜け出せなくなるほどに深い世界が待ち受けています。
落語は通俗な世界を舞台にしたもの。王侯貴族が没落し始めて大衆が劇場に通い始めた頃に活躍したモーツァルトの時代のオペラもそんなものでした。
いまでは落語やオペラはどこまで大衆のものなのでしょうか?
(2) だから人は一人にならないんじゃないか
わたしはこの物語の主人公のように、一人で自分の好きなことに打ち込んで、一人で本を読んだり、音楽を奏でて聴いたりしている方が、大勢の人とワイワイ騒いだりするよりも好きな人です。
でも小説の中でもオペラの中でも、必ず誰かに会う。出会う。
ノンフィクションでも人の作り出した社会のことを語っていて、サイエンスも人の社会のためのもので、人に伝えられて初めて我々は理解できる。
何をしていても、結局は自分は一人にはなれない。なりきれない。
落語は人と人との物語。人を物語る話術というか芸、つまり芸術。一人では決して極められない。だから主人公もこういう思いへと最終的にはたどり着く。
ピアノを一人で弾いて練習しているとどんどん技術的に上手になれる。
でも自分の上達を語りたいし、困難にぶつかればそれを語りたい。誰かが一緒だと、自分の時間はなかなか持てなくなる。でも音楽は誰かのために奏でるもので、誰かを思って弾くとより素晴らしくなる。独白ではなく、対話。
落語も同じ。一人では続かなくなる時が来る。誰かのために忙しいから自分一人の時間がより意味深くなる。全ての人に与えられた時間は平等でも、時間の使い方は、一人だけであると、誰かと生きているとでは質が違ってくる。
含蓄の深い言葉。無駄に思える時間が芸の肥やしになり、人生の糧になっている。絵本の「百万回生きた猫」を書いた佐野洋子は「友達とは無駄である」という著書をかいています。
無駄とは、無駄などうでもいいような時間のことで、そういう一見生産性のないような怠惰な時間を共に過ごした人こそが友達になれるという意味です。
学生時代には友達を作りやすいのはそのためですね。
仕事仲間はなかなか友達になれない。
なれるとすれば、休日に一緒にハイキングに行ったり、どうでもいい話をコーヒー飲みながら話したり、なんでもない、どうでもいい時間を過ごすことでようやく仲良くなれる。
能率とは無縁な、一見くだらない時間を一緒に過ごすと友達になる。家族が友達以上な存在なのは、そんな時間を山ほど一緒に過ごしてきたから。子供と無駄に見える思える時間を一緒に過ごさない親は子供とは仲良くなれない。
自分一人でいたい。自分の時間を自分だけで独占したい。好きなことを独りでしていたい。
でも自分は家族と賑やかに暮らしている。猫までいる。そして家族と暮らしていることは非常に大切であるとも思ってる。自分がやりたいと思っている仕事や趣味にとってはたくさんの無駄であるにしても、誰かと生きていることは意味深い。
だから、八雲師匠の感慨にとても共感します。
(3) ひとりは二度とはイヤ
別の場面。
1人になりたくないのに、いつでも一人で、愛されないで生きてきた彼女。
一人でいたい八雲師匠を愛してやまない彼女は、愛されることよりも愛していたいと本当の気持ちを吐露する。
誰にも愛されず、愛するべき人をこれまで持てなかった、彼女だから語れる言葉なのか。
わたしは男性なので、自分とは全く別の行動原理を持つ女性のこうした心に関心を持ちます。
女性は愛されると本当に綺麗になるし、愛されていると太陽のように輝くけれども、男性はどんなに愛されても縛られていたくはない。愛されていると感じない女性は衣食住に不自由なくても、いつまでも悲しくて不幸。
ヴァーグナーの楽劇「ラインの黄金」を思い出します。
ラインの黄金より作り出した指輪を男性が持つと、世界全体を支配できる。
でも女性の場合、ある男性の愛を永遠化できるようになるのです。愛する男性の心を永遠に彼女自身のものにしておくことが可能になるのだというのです。
女性にとって、愛する人の心の独占は、男性にとっての「世界制覇の野望」= 「一生をかけたい仕事を極める」にも等しい。
本当だと思いますよ。男女の願望とは、これほどに違う。
「落語人中」は女性漫画家の作品で、ジャンル的には女性漫画。
だからでしょうか。
自分には決して出来そうにない、こういう女性の深い心情の描写に心惹かれます。主人公は男性だけれども、女性視点な物語だからこそ、こういう中性的な主人公が描かれたのかもしれません。男性原理の支配する世界では、こういう物語は生まれない。わたしには非常に興味深いものです。
ネタバレなしなので、ここまでです。原作漫画なりアニメなりで「落語人中」、是非とも楽しまれて下さい。