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わたしの好きな恋愛小説
素敵な漫画がフィードのお勧めに回って来たので読んでみて、スキしました。
こういう記事に出会えることがNoteをしていてよかったと思える時ですね。
原作イメージと二次創作イメージとのギャップ
伊藤左千夫の小説「野菊の墓」が大好きで、小説を何度も読み、また山口百恵や松田聖子主演の映画や、1950年代の古い白黒映像の木下恵介監督作品も見たほどですが、視覚化は難しい。
言葉の描写はどんな作家の具体的な表現でも、解釈の幅があり、読み手がおのおの抱いている原作から得るイメージと異なることが多くて、がっかりすることもしばしばです。
いろんなイメージがあることは、読み手の数だけ、想像力があるということ。だから漫画や映画の具体的な視覚描写によって「民さん」のイメージが限定されてしまうことは賛否両論を呼びます。
19世紀の初頭に当時の新進作曲家フランツ・シューベルトが、文豪ゲーテの詩に音楽を付けて大詩人に音楽を送ったのに対して、ゲーテは返信もしなかったという事実にも通じます。ゲーテは詩は詩のみを味わうもので、ロマンティックなシューベルトの音楽を不要であると考えたのだとか。
Kazeさんの漫画は、原作に忠実な「野菊の墓」を思い出させてくれるに十分な秀作です。わたしの思い描く民子さんはもっと幼い少女の面影を失わない女の子なのですが、解釈とは全く人それぞれ。
特にわたしには、「野菊の墓」はわたしが最も好きな恋愛小説と読んでもいいくらいに好きなものなので、わたしは漫画を読みながら、自分ならばこんな民さんがいいなぁとか、いろいろ想像力の翼を羽ばたかせていました。
ですので、わたしの好きな恋愛小説のことを少し語りたいと思います。
これほどに苦しむのならば、恋愛なんてしない方がいい
恋愛小説にもいろいろなタイプがあります。
たとえば恋愛感情があなたの世界の中心となり、恋を遊びとして「演じる」はずだったあなた自身が恋に支配されて恋の奴隷となることも。
イタリアルネサンス時代のペトラルカ (1304–1374) のソネット104番は、そんな恋に支配された男の心理を見事なまでに描き出しています。
もちろんピアノ弾きであるわたしはフランツ・リストの名作からこの詩に親しんでいます。リストはこの詩を詠んだ男の狂おしい感情を音にしたのです。
僕は平和を失ったが それでも争いたくはない
いま 恐れながらも 希望を抱き
心は燃えながらも 氷のようで
空を飛びながら 地面に這いつくばり
何ひとつ持っていないようで
あなたといると 世界のすべてを抱いてるみたいだ
あなたは僕を監獄に閉じ込めた鍵もかけなければ
解放することもない僕のことを
自分のものだと言って欲しいさもなくば
どうか この縄をほどいて
とどめを刺す気がないならせめて
この手錠を外して欲しい
目がなくとも見つめ
舌がなくとも叫び死にたいと願いながら
命乞いをして自分を憎みながらも
僕は人を愛している苦しみを食らい
泣きながら笑い生きることも
死ぬこともいまでは
ひとしく
愛おしい誰がこんなにも
僕を変えてしまったのかそれは奥様
あなたなのです
こんな狂える様を誰よりも見事に小説として描き出したのはフランスのスタンダール (1783–1842) でした。
名作「恋愛論」の作者としても知られています。
学生時代に「赤と黒」並びに「パルムの僧院」を夢中で読みました。
皇帝ナポレオンに憧れるも、遅れて生まれてきたために軍人にはなれない、ゆえに立身出世のために僧服を身にまとうジュリアン・ソレルに誘惑される恋人レナール夫人が恋に動揺する姿の描写は今でも忘れることができません。
「パルムの僧院」の題名そのものである僧院は、長い物語の最後の最後まで登場しません。そこまで血沸き肉躍るといいたいような波乱万丈の物語が繰り広げられていた果てに愛を失った主人公は僧院に籠ります。
急に作者の筆は客観的な記述式に変わり、一切の詳細は語られずに僧院に籠る主人公の心の中は全く明かされることはありません。愛を失った主人公は一切を沈黙します。
こんなにも深い愛の表現がほかにあるとすれば、源氏物語の雲隠れの章だけです。
以前あるSNSで、あなたの一番好きな恋愛小説は何ですかと訪ねられました。
激しい恋愛ならばエミリー・ブロンテの「嵐が丘」や、「嵐が丘」を本歌取りして戦後日本を赤裸々に描き出した水村美苗の「本格小説」もいいですが、尋ねられたのは、一番好きな恋愛小説。
一番好きなと言われるのわたしには、将来の幸せなど鑑みることのない、打算のない純愛小説を楽しみたい。
だから瑞々しい成就しない初恋の物語。
そう書くと、誰もが思い浮かべるシェイクスピアの「ロメオとジュリエット」をわたしはあまり好きではありません。秘密裏に結婚式を挙げて肉体的にも結ばれた二人の物語は確かに悲恋に終わりますが、わたしはもっともっと周囲の無理解ゆえに残酷に引き裂かれて結ばれぬプラトニックな恋に心動かされます。
そして、わたしには本当の悲恋の最も美しくて悲しいものは、この小説の物語だと思います。
短い小説ですので、2時間ほどで原作を読んでしまえるのですが、私流に読み解くと次のような物語です。
野菊の墓という物語
明治時代後半。
有力商家の息子である15歳の政夫は旧制中学校への入学を控えている。
旧制中学校は現代でいえば旧制帝大への入学が期待できるエリート高等学校。政夫は跡取り息子として学問を修めることが求められている。父親はなく母が旧家を取り仕切るが病弱であるために身の回りの世話をさせるために親族の娘である17歳の民子を住まわせている。現代的に言えばいわば結婚前の家事見習いをしているようなもの。
民子は幼馴染である政夫にほのかな恋情を抱いている。しかし年下の政夫は民子の想いに対して無邪気に彼女を姉のように慕っている。やがて二人の仲は自由恋愛などありえなかった時代の狭い村社会で顰蹙を買う。それでも二人は逢瀬を重ね、次のような言葉を野道で交わしあう。
「まア政夫さんは何をしていたの。私びッくりして……まア綺麗な野菊、政夫さん、私に半分おくれッたら、私ほんとうに野菊が好き」
「僕はもとから野菊がだい好き。民さんも野菊が好き……」
「私なんでも野菊の生れ返りよ。野菊の花を見ると身振いの出るほど好もしいの。どうしてこんなかと、自分でも思う位」
「民さんはそんなに野菊が好き……道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」
民子は分けてやった半分の野菊を顔に押しあてて嬉しがった。二人は歩きだす。
「政夫さん……私野菊の様だってどうしてですか」
「さアどうしてということはないけど、民さんは何がなし野菊の様な風だからさ」
「それで政夫さんは野菊が好きだって……」
「僕大好きさ」
![](https://assets.st-note.com/img/1656295722212-UpjKkW2zEG.png)
路傍の野菊のように質素でそれでいて可憐な民子に対して、ただ自分は野菊が好きだと不器用に伝える政夫。
これが15歳の純真な政夫の民子への精一杯の愛の告白。華麗な薔薇の花などとは全然ちがう、田舎の道端に当たり前のように咲いている愛らしい野菊。
ごく普通の明るく素直で素敵な女の子。それが民子でした。
また民子はこう政夫に応えます。
民子は云いさしてまた話を詰らしたが、桐の葉に包んで置いた竜胆の花を手に採って、急に話を転じた。
「こんな美しい花、いつ採ってお出でなして。りんどうはほんとによい花ですね。わたしりんどうがこんなに美しいとは知らなかったわ。わたし急にりんどうが好きになった。おオえエ花……」
花好きな民子は例の癖で、色白の顔にその紫紺の花を押しつける。やがて何を思いだしてか、ひとりでにこにこ笑いだした。
「民さん、なんです、そんなにひとりで笑って」
「政夫さんはりんどうの様な人だ」
「どうして」
「さアどうしてということはないけど、政夫さんは何がなし竜胆の様な風だからさ」
民子は言い終って顔をかくして笑った。
![](https://assets.st-note.com/img/1656295740872-pQwNzZ40EP.png)
でもそんな可憐な野菊は無情にも手折られてしまう。二人の仲を邪推する無理解な大人たちは政夫を予定よりも早くに街の中学校へと送りだしてしまうのです。
別れのとき。政夫は一通の手紙を民子に手渡します。
朝からここへ這入ったきり、何をする気にもならない。外へ出る気にもならず、本を読む気にもならず、ただ繰返し繰返し民さんの事ばかり思って居る。民さんと一所に居れば神様に抱かれて雲にでも乗って居る様だ。僕はどうしてこんなになったんだろう。学問をせねばならない身だから、学校へは行くけれど、心では民さんと離れたくない。民さんは自分の年の多いのを気にしているらしいが、僕はそんなことは何とも思わない。僕は民さんの思うとおりになるつもりですから、民さんもそう思っていて下さい。明日は早く立ちます。冬期の休みには帰ってきて民さんに逢うのを楽しみにして居ります。
二人はもう二度と言葉を交わすこともありません。去っていった政夫のいない広い家。やがて民子は見知らぬ軍人の家に輿入れすることを無理やり決められてしまいます。
結婚は家と家の結束の手段。愛無き結婚など当たり前の時代なのですが、あまりにも無情な運命。
嫁いでゆく民子。
泣き暮らす民子。
愛してもいない男の子供を身籠るも流産し、産後の肥立ちが思わしくない民子は実家へ帰されて親族が見守る中、息を引き取ります。
枕元には政夫の母もいました。
死んだ民子はついに一度たりとも政夫の名をその死の床で口にすることはありませんでした。政夫の勉学のために身を退いた彼女はその名を口にしてはいけなかったのです。ですが彼女はあるものをずっと握りしめたまま亡くなったのでした。
最後の最後に政夫が彼女のために書いた最初で最後の唯一のラブレターと一葉の写真。「朝からここへ這入ったきり...」で始まるあの手紙と政夫の写った小さな写真。
彼女は何度この手紙を読み返し、どれほどにその小さな写真を見つめていたことでしょうか?孤独と自己犠牲と諦念。
民子の真情を改めて悟り涙する愚かな大人たち。そして全てが終わってしまったのちに最愛の女性の最期を伝えて涙ながらに許しておくれと政夫に繰り言のように繰り返す母。
頬に涙を伝わらせる政夫は白い野菊を薄幸の民子の墓に手向けます。やがて民子の墓は白い野菊に覆われます。小説はこう締めくくられます。
民子は余儀なき結婚をして遂に世を去り、僕は余儀なき結婚をして長らえている。民子は僕の写真と僕の手紙とを胸を離さずに持って居よう。幽明遙けく隔つとも僕の心は一日も民子の上を去らぬ。
そして民子のいなくなった世界では民子のいない無慈悲な時間が政夫の胸中をただただ流れてゆきます。政夫もまた実家の家業を受け継いでゆくがために愛してもいない女性と結婚して子をもうけたことでしょう。
そして誰にも語ることのできぬ民子への想いを心の奥底に秘めながら余生を生きたことでしょう。生き残ってしまうということは本当に残酷なことなのですね。
恋愛の果てに
最初にスタンダールを紹介しましたが、彼の二大小説の最後には全く同じ言葉が置かれています。フランス語の小説であるにもかかわらず、大文字の英語でこう一言。
TO THE HAPPY FEW(少数の幸福な人々へ)
恋することは誰にでもできることではない。だからこの言葉なのです。
狂おしいまでに誰かを愛するという体験をすることはできたものは幸福であると信じていたと言われています。
ですが政夫の幸福とはなんだったのでしょうか。
民子への想いを秘めながらも夫として父親として実家の大旦那としておそらくずっと生きながらえた彼の人生は「少数の幸福な人」のものだったのでしょうか。
恋をしたかったと願いながらもできかった方もたくさんいらっしゃるでしょう。スタンダールがいみじくも述べている様に、恋をする体験はある意味限られた者の特権です。
ですがそれゆえにそんな少数者の人生はどこか影を帯び、彼らは誰にも語ることのできぬ想いに時々囚われて生きてゆくこともあるのでしょう。
わたしにも苦い思い出がありますが、そんな体験を幸福だったと言えるようになったのもごく最近のことかもしれません。
スタンダールは墓碑銘として
VISSE,SCRISSE,AMO(生きた、書いた、愛した)
の言葉を刻むように遺言したほどの人生を送った作家でしたが、愛しながらも愛し尽くせなかった政夫のような男の口から出る言葉ではなかったのではないでしょうか。
同じく冒頭に引用したペトラルカは、満たされなかった恋情を生涯その胸に抱き続けてその晩年に数多くのソネットを書いたのだと言われています。
心の底から愛せなかった悔恨の情を抱いて生きることが本当の恋愛なのか、愛し尽くしてその愛を全うしてその恋を追憶の彼方へと仕舞い込んで美しい思い出だったと語れることが本当の恋愛なのか。
恋愛とは一筋縄では行かないものですね。だからこそ恋愛が近代小説の大事な主題であるわけです。
夏目漱石も絶賛した日本近代文学史上の名作である「野菊の花」は、日本語の原作で読んでいただきたいのですが、YouTubeで朗読版を見つけました。二時間半もかかりますが、耳で聞かれることも素晴らしい文学体験であると思います。
朴訥な吉川幸男さんの朗読は味わい深いです。女性よりも、男性の朗読者に読んで欲しい。政夫によって語られる物語なのですから。
何度も映画化された物語ですが、是非とも原文で読んで、あなた自身の政夫や民子に出会って欲しいですね。古い時代の風景が文章からではどうしても思い浮かばない方は、漫画や映画から物語へと親しまれてください。
1981年に松田聖子さんの主演した映画の主題歌が好きです。この物語をよく言い表した歌。山口百恵さんの歌よりも、この歌を好みます。
人の夢とペンで書けば
儚いって読むのですね
本当の恋は夢のよう。
結婚して結ばれると、きっと幼い恋は深い愛情となり、果てには友愛になって、それがもはや恋だったことさえも忘れてしまうことでしょう。
成就しない恋ばかりがペトラルカの恋のように、苦い悔恨と苦痛をいつまでも記憶してゆくこととなるのです。
映画を見られて原作を読まれてはいないと言われる方は是非とも原作をお読みになってください。
原作に描かれた恋の果ては映画のようにはロマンティックではない苦い現実があるのです。映画はそれ故にどこかセンチメンタル。でも生き残って現実世界を生きて家業を継いで、民子以外の女性を娶る政夫の未来には何があるのでしょうか。
野菊は毎年新しく咲いても、政夫の心の傷はいつまでも癒やされることがない。
読んでくださってありがとうございました。
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