家族の尊さ:浦沢直樹のPLUTO
Netflixにおいて、2023年10月、浦沢直樹の名作漫画「プルートゥ」がアニメ化されました。
原作はウィキペディアによると累計発行部数は1000万部超というベストセラー。
しかしながら、コミックス最終巻が出版されたのは2009年。
人工知能がこれほどに身近になった2023年だからこそ、この漫画がいま、十四年も遅れてアニメ化されたのでしょう。
しばらく読まなかったので、原作が限りなく忠実に再現されたアニメを鑑賞して、原作マンガを読んだ頃の感動を久方ぶりに思い出しました。
アニメのエピソードはどれも一時間の全八話。
つまり原作一冊分まるごとがアニメの一話という構成。
作者浦沢直樹はクリエーティブアドバイザーとして制作に参加していて、劇中歌の作曲まで手掛けています。
第一話に登場する大量破壊ロボットのノース二号が執事を務めた盲目の天才作曲家ポール・ダンカンの故郷の民謡の作曲はさすがはフォークギターの浦沢直樹といった貫禄です。
いつまでも耳に残るメロディ。
十数年ぶりのPLUTO
本当に久しぶりに懐かしいPLUTOに再会しましたが、アニメで物語を読み直して、以前には見えなかったことが理解できて、心が震えました
「家族が存在していることの尊さ」です。
家族がいる。
そんな当たり前のことが当たり前ではない世界がこの物語では描かれる。
原作をリアルタイムに読んでいたあの頃はまだ若かったためかもしれません。このことがよくわからなかったのは。
「家族」がいなくなってしまうということを深く考えさせられました。
家族が存在しているということ
家族を描いた漫画や物語はたくさんありますが、ほとんどの物語は家族との負の関係についての葛藤を描くものです。
しかしながら、家族が戦争や事故で失われてしまうことを中心主題として描く物語は数多くはないのです。
PLUTOの物語では、喜怒哀楽を持つ人間に限りなく近い人工知能を持ち得たことで人の哀しみさえも体験できるようになったロボットの哀しみと苦しみが大きな主題として語られます。
ですがこの哀しみと苦しみは、愛する家族を失うからこそ引き起こされる。
何よりも愛してる家族を奪われた、人に限りなく近い感情を持つようになったロボットは憎悪に狂う。
これほどの憎悪は家族の喪失からしか引き起こされはしない。
愛と憎しみは対極ではなく、表裏一体。
愛するものを持つと守らないといけない。
自分の命を引き換えにしたとしても。
PLUTOはノンフィクション?
21世紀に生まれた若い方はご存じでしょうか。
20世紀の終わりの湾岸戦争という嘘の大義名分において勃発した戦争のことを。
アメリカに靡かぬ独裁国家イラクは大量破壊兵器を所有しているとして、世界平和のために一方的にアメリカ合衆国を主体とした国連軍はサダム・フセイン独裁政権を武力によって壊滅させたのでした。
侵攻の大義名分だった、隠されていたはずの大量破壊兵器はどこに?
結論として、独裁政権崩壊後のイラクのどこにも、大量破壊兵器なんてものはありませんでした。
核開発も計画はしていたのでしょうが、もう一つの西側の仮想敵国のイランほどにはイラクの核脅威など絵空事だったのでした。
イギリスやアメリカの主張はまったくの嘘だったわけです。
つまり、PLUTOは誰が読んでも、米英主体の国連軍によるイラク侵攻にインスパイアされた物語なのです。
国連軍の侵攻を目の前にしてサダム・フセインは先制攻撃としてクウェートに攻め込み、戦場は国境を超えて広がりました。
やがて国連軍の総攻撃を浴びて、イラク軍は完敗。イラクの国土は焦土と化しました。
しさしながら、そもそも戦争勃発の原因はあきらかに石油供給問題でした。
反欧米姿勢を鮮明にしていたサダムはどうしても取り除かれなくてはならなかったのです。
初めに結果ありきの戦争。
戦後のイラクで大量破壊兵器が見つからなかったことは見つからなかったという歴史的事実を踏まえた上でPLUTOを読んでみると、物語の中のペルシアの「ダリウス14世」はイラクの「サダム・フセイン」であり、トラキア合衆国はアメリカ合衆国であることは誰にでもわかることです。
物語の中では大量破壊兵器は大量破壊ロボットと呼ばれます。
最高の人工知能を持ったロボットの開発が疑惑の発端でした。
虚しい侵略は何十万という無辜の民の死と苦しみを生みだして、あとには侵略した敵国への憎悪が深く全国民の心の中に刻まれたという図式。
この点ではPLUTOは何も創作していない。
まったく現実世界そのまま。
こんなにも湾岸戦争のリアルが描かれた物語は他にはないのです。
2023年のサハド
2023年、昨年のロシアによるウクライナ侵略に続いて、ハマスによるイスラエルへのミサイル爆撃が引き起こされて、イスラエルはパレスチナのハマスを壊滅すべく、復讐の戦いを続けています。
だからこそ、PLUTOです。
PLUTOのアニメを見ていて、描かれているのはまったくイスラエルやパレスチナの戦争そのものなのだと思わずにはいられませんでした。
憎しみの連鎖。
復讐のための復讐。
鑑賞しながら、憎しみゆえにどれほどの新しい悲劇が引き起こされてゆくのかがあまりにも鮮明に描かれていて身をつまされる思いを禁じえませんでした
悲劇「PLUTO」の憎しみの連鎖
(1)ハンスとハンスの兄はロボット革命のために仕事を失った父の子供たちでした。
兄妹の父は貧困ゆえに犯罪を犯して自死しました。
ゆえに兄弟はロボットへの深い憎悪を抱いたまま成人したのでした。
(2)そんなハンスは、秘密組織の反ロボット教団に密かに入会します。
やがて反ロボット教団の意思に背いた貿易商ハンスは、教団に裏切り者として暗殺されようとします。
(3)教団に暗殺されようとしているハンスなのですが、実は犯罪者である実の兄をロボット刑事ゲジヒトに殺された恨みゆえにをゲジヒトを殺害しようとしました。
しかし教団はゲジヒトがハンスに暗殺されるよりも、殺人罪を公にする計画を立てています。だからハンスはゲジヒトを殺す前に消されなければならないのでした。
(4)ハンスの兄は、実は子供型ロボットの連続破壊犯(連続殺人犯)でした。ゲジヒトは養子にしたばかりの小さなロボットの子供をハンスの兄に壊された(殺された)のでした。
ゲジヒトは家族愛からハンスの兄を特殊兵器によって虐殺。
ハンスの兄の殺人動機も、発端はロボットへの恨みでした。
2023年の人工知能
現在、生成AIが世界を席巻していて、わたしもまた生成AIを使いこなせるようにならねばと必死にもがいている人間です。
人工知能の元であるGPTプログラムはオープンソースで公開されたがために、だれでも十分な能力をもったコンピュータさえ用意すれば、自宅で画像生成AIもテキスト生成AIも独自に利用できて、好きなだけ機械学習も行えるのです。
AIを学ばないとわたしもまた、リストラされるかもしれない。
本来は安定していた仕事をもう20年以上も続けていて、ある意味、ロボットの脅威にさらされているわけです。
PLUTOが予言しているロボットと人間の共存している世界はまさに現実になりつつあります。
しかしながら、ロボットがどれほどに世界を変えようとも、人間はいつまでも人間のまま。
PLUTOの世界は人工知能はもはや人間の手を離れて、ロボットが一個の人格を持つ段階にさえたどり着いている近未来。
人格を持ったロボットは喜怒哀楽を学ぶようになり、最優秀の人工知能を備えたロボットは人間のように嘘だってつけるようになる。
ロボットは必ずしも、人間の幸福にばかり尽くすということはなくなり、独立した人格としてのロボットの人権さえも擁護される。
こういうロボットは家族さえも持ちたがる。
社会的な動物である人間の、家族を作って愛しあう、という特性を受け継いでいるからです。
やがては自然と人間の本能を受け継いだロボットは誰かを愛するという感情さえも身につけるのです。
だから家族が失われることで、ロボットは絶望を学び、家族を殺した犯人を殺害してしまいたいという憎悪さえも持つようになるのです。
ロボットは絶望さえも学び、自殺さえも考え始める。
そして殺人を犯したならば、罪の報いを受けんがために裁きを求める。
手塚治虫の「火の鳥」のロビタのように!
家族がいることのすばらしさ
悲しいかな、人間は失ってみるまで、家族の本当の素晴らしさがわからない。
平和な家族の団欒の楽しい日々をつづった物語を読んでも、ひとは家族がどれほどに大切なのか、なかなか気が付かない。
しかしPLUTOでは中央アジア紛争においては爆撃されて家族を亡くした父親に光が当てられる。
まったく今現在ガザやウクライナで起きていることと同一な出来事。
寝ていた子供を亡くした彼は絶望なのだと物語の中で語られる。
本来の主人公である日本の超高性能ロボットのアトムは敵ロボットが得意とする電磁波攻撃で動かなくなり、死んでしまう。
死んだ息子そっくりの姿を再現するためにアトムを作り出した天馬博士は二度目の息子の死を世界の終わりのように悲しむ。
兄のアトムを失ったお転婆の小学生高学年の朗らかな妹ウランも悲しみのあまりに別人のように無口になる。
世界最高性能のロボットたちが次々と破壊されてゆき、彼らを愛した人たちは一様に悲しみ、またロボットも自分の生みの親である科学者たちの死を悼む。
物語の主人公であるはずの刑事ゲジヒトは原作第六巻(アニメでは第六話)で死んでしまう。主人公であるはずなのに途中退場。
優しさという感情を体現しているようなゲジヒトの妻ヘレナは抑えきれない感情を泣くという形で放出する。
ロボットが耐えがたい悲しみに打ちひしがれて滂沱の涙を流す。
敵ロボットであるプルートゥは、実は父親を失ったサハドという植物学研究者ロボットなのでした。
ここにも家族がいる。
全ての哀しみは家族の喪失に原因がある。
極めつけはトルコの最高性能ロボットのブラント。
格闘技チャンプの彼は勝ち取った莫大なファイトマネーをロボットの家族を買うということに使う。
ロボットの彼は家族とワイワイガヤガヤ生きることが何よりも素晴らしいのだと自分で人間たちを観察して学んで、妻と五人の子供たちを手に入れて生活をしている。
戦友モンブランの弔い合戦に挑んだブラントはプルートゥに敗れます。
父親と夫の死に面して家族たちは悲しみに打ちひしがれる。
「家族のすばらしさ」
「家族の絆」
「家族の大切さ」
アニメPLUTOを観ながらこういう言葉の意味を反芻していました。
Singularityとはロボットが人間を超えるのではなく、人間と同化することなのか?
Singularity(技術的特異点)という言葉が十年ほど前から特にメディアを賑わすようになりました。
人工知能が本当に人間を超えるとすれば、人類に敵対する映画の最終兵器になるよりも、PLUTOが描くような憎悪や悲嘆を知るロボットになってゆくのかもしれません。
ロボットはホモ・サピエンスがホモ・ネアンデルタール(ネアンデルタール人)を殺戮したように、人類を滅ぼしてしまうのでしょうか?
もしも人工知能に人間らしい感情が与えられるのならば、人工知能は人類という自分によく似た異物を排除するという目的のために行動するようになるのか?
SFを描くことが生きがいだった藤子不二雄Fの「どらえもん」には、また別のSingularityの可能性が描かれていました。
風化する記憶と決して消えない記憶
記憶の問題も物語では繰り返し語られました。
人間は物事を忘れる。
だから大切なことを忘れないように記念碑を立てるのだと。
ロボットはデータを消去しない限り忘れない。
逆に言えば、辛く悲しい想いは人為的に永遠に消してしまえるのです。
だが人はなぜか辛く悲しいことばかりは忘れることができない。
忘れっぽいはずの人間が。
そして最優秀ロボットはこの人間の特性までも受け継いでいました。
最後まで忘れることのできない記憶。それは家族。
仇敵の正体を暴くためにブラントがゲジヒトらに転送した最後の画像たち。
それは本来送るべき敵の葉像ではなく、家族の写真でした。
人は自分が死んでゆくとき、一番愛する人たちのことを思い出すといいます。
ブランドの死の目前に浮かんだ走馬灯には家族ばかりが現れては消えてゆく。
格闘ロボットのブラントはとてつもなく人間らしさを持ち備えていたロボットだったのでした。
浦沢直樹作品の家族
浦沢直樹の作品はほとんど読みました。
9.11以前に国際テロ組織との抗争を予言的に描いた「パイナップルアーミー」。
感動の柔道ラブコメ最高峰の「Yawara!」
家族のために借金やいじめとテニス美少女物語の「Happy」
ドイツを舞台にしたサイコパス・スリラーの「Monster」
日本を舞台にした昭和ミステリー「二十世紀少年」
アメリカンコミックスの世界を下敷きにした奇想天外な歴史物語「ビリーバット」
どれも素晴らしいけれども、鉄腕アトムの長編物語を下敷きにしているために、全八巻という作品構成が完璧な本作、浦沢直樹最高傑作と呼ばれるにふさわしい作品なのでは。
浦沢直樹の描く家族がいつだって素晴らしいのは、あらゆる年齢の登場人物を明確に描き分けられる浦沢直樹の脅威の筆力のため。
彼が若かったころの昭和な世界の家族像の物語ばかりだけれども、そんな昭和的な大家族は日本の風景からはなくなってしまった令和の時代にだからこそ、こんな昭和チックな物語を読んで、いまの世界にはなくなってしまった価値の物語を読むことは非常に意味深いことでしょう。
物語の中央アジア紛争の悲劇は、いまもデジャヴのように、パレスチナやウクライナで繰り返されているし、ロボット不況がまだ始まっていなくても物価高で失業してゆく人たちは世界中に溢れかえっている。
AIは間違いなく、世界の形を変えてゆく過程にあるのです。
1990年代のイラク・クウェートの湾岸戦争を題材にして2000年代に書かれたPLUTO。そして人工知能一般普及の時代と後世に記憶されるであろう2020年代の現代。
マンガを読んでアニメを見て世界を考えてみる。
きっと自分の今いる世界は違った風に見えてくる。
本作の最後のメッセージである「憎しみからは何も生まれない」は憎しみの連鎖を断ち切るには本当に大切な言葉。
でも手塚治虫のブラックジャックのように、憎しみを生きる糧として強くなる人もいる。でも憎しみばかりでは本当に何も生まれない。
いまこそ、PLUTOを読んで、または見てみるべきです。
ウランちゃんの肖像
最後にアトムの妹ウランの明るくて楽しい画像はいかがでしょうか。
生成AIのStable diffusionで自由に書き換えてみました。
楽しんでいただければ幸いです。
本家手塚治虫版とは一味違った、おませでお転婆で誰よりも人の悲しみを理解できる浦沢ウランちゃんです。
サハド(PLUTO)が壁に描いたお花畑は抽象画だったけれども、こんな絵を思い描いていたはず。
人間に限りなく近づいてしまった、人間らしくなりすぎたがゆえに家族を持ってしまったロボットたちの悲劇的群像劇。
そんな物語の一場面で印象深かったのが、サハドの描いた花畑の絵を見て涙を流すウランの姿でした。
こんな感受性の豊かさをどれほどの人が持ち得ていることか。
素晴らしい芸術を見て涙を流す!
ロボットはどこまで人間に近づいてゆけて、どこまで人間以上の人間らしさを身につけてゆくのでしょうか。
原作同様にアニメのPLUTO、Netflixで見れるので機会があればご鑑賞ください。
わたしはロボットたちの悲劇を通じて、人間らしさとは何であるかを考えたのでした。
参考文献: