大英帝国のヴィクトリア女王:知られざるドイツロマン派の大作曲家ファニー・メンデルスゾーン(2)
国産の大作曲家が生まれないお国柄だった英国。
18世紀にして欧州のどこの国よりも既に経済大国だった英国は、自前の音楽家を育てるよりも、海外の高名な作曲家を高給で招いて一流の音楽を楽しむという伝統を持つようになりました。
輸入作曲家第一号:ハンデル
ドイツのハノーファー選帝侯に仕えていたドイツ人ゲオルグ・ヘンデルは、雇い主の選帝侯が血縁から英国王(ジョージ一世)に選ばれた縁ゆえに英国に移住。
最終的に帰化して英国人ジョージ・ハンデルとなりました。
ハンデル晩年のオラトリオは、どれも「英語」で書かれているクラシック音楽レパートリーの中では稀有な作品群。
もちろんハレルヤコーラスの「メサイア」も英語の音楽。
ハンデルはいまも英国文化に最も貢献した人たちだけが埋葬されるウェストミンスター寺院で英国人として眠っています。
輸入作曲家第二号:ロンドンのバッハ
バッハの末息子ヨハン・クリスティアンは、父親に馴染み深いケーテン出身のアーベルと組んで、大変に有名となる「バッハ・アーベル・コンサート」を開催して一世を風靡。
大陸では芸術音楽は王侯貴族しか聞くことができなかった時代に、庶民でも聞くことができる現代の演奏会の定型を確立しました。
バッハ一族最高の世俗的大成功を勝ち得たクリスティアンは「ロンドンのバッハ」として、英国の首都ロンドンで亡くなりました。
子どもの頃にクリスティアンに可愛がってもらったウィーンのモーツァルトは、バッハの死のニュースを興奮した様子で手紙で父親に知らせて、ピアノ協奏曲第12番KV.412のアンダンテの主題をクリスティアンの音楽から引用して追悼しています。
輸入作曲家第三号:恋するハイドン
ハンガリーの大貴族エステルハージ家に30年も仕えたハイドンは、英国に二度も招かれました。
ハイドンが二度の英国滞在で稼ぎ出した純利益は封建領主エステルハージ侯の宮廷に勤めて得た20数年間の全給与を上回るほどのものでした。
一回目の英国旅行の終わりには、相思相愛となった作曲家未亡人レベッカ・シュレーダーと暮らすことを真剣に考えるのでしたが、結局は60歳のハイドンの人生最後の恋は実ることなく、ハイドンはウィーンへと帰ってしまいます。老齢と新しい文化への不安ゆえのためでした。
ハイドンもまた、シェイクスピアの詩などによる英語の歌曲を作曲しています。
輸入作曲家第四号:リース、ベートーヴェン
ナポレオン戦争のために貴族からの年金支給が滞ってしまったベートーヴェンも真剣に英国行きを思案しました。
ロンドンフィル協会から正式に招待を受けたベートーヴェンは第二のハイドンになることを夢見ていたのです。
弟子のフェルディナンド・リース(ピアニスト兼作曲家)が英国に先に渡って成功を収めていたことも刺激になったことでしょう。
ベートーヴェンも諸々の事情から移住は断念。でもスコットランド民謡を大量に編曲するなどして糊口をしのぐのでした。
ベートーヴェンは最後の最後まで英国行きを諦めきれなかったのでしょうか。
クレメンティやクラーマーなども英国に渡った音楽家たちでしたが、彼らは楽器商となって英国の経済的繁栄を楽しんだのでした。
輸入作曲家第五号:フェリックス・メンデルスゾーン
ナポレオン戦争が収まると、次に呼ばれたのはグランド・ツアーでスコットランドとイングランドを先に訪れていたフェリックス・メンデルスゾーンでした。
メンデルスゾーンは最初の英国旅行から受けたインスピレーションから名作「フィンガルの洞窟」や「スコットランドソナタ」、「スコットランド交響曲」などを作曲するほどに英国が大好きでした。
大英帝国の君主はジョージ王からヴィクトリア女王へと代替わりしていて、オシドリ夫婦の若い女王と夫君アルバート公は音楽をこよなく愛することで有名でした。
ヴィクトリア女王はメンデルスゾーンの音楽の大ファンだったのです。
今でいうところの女王最大の「推し」はメンデルスゾーン。
フランツ・リストも音楽好きの女王に呼ばれてウィンザー城で二年前の1840年に女王に謁見してリサイタルを開いていますが、ヴィクトリア女王が最も好きな音楽家はメンデルスゾーンだったのです。
リストのどちらかと言えば野蛮な「超絶技巧曲」よりも、女王陛下はメンデルスゾーンの品の良い「無言歌」が好みだったのです。
女王陛下ですからね。まあ当然のことです。
1842年のことでした。
メンデルスゾーンはバッキンガム宮殿に正式に招かれてヴィクトリア女王に謁見。
夫君のアルバート公はメンデルスゾーンを前に見事なオルガン演奏を披露して、メンデルスゾーンはお世辞ではない本当の称賛の言葉を書き記しています。
この会見の様子を描いた銅版画がのちに流布して有名になっていますが、こんな絵が流通したのも、文化的な王室というイメージを広めるためのプロパガンダだったでしょうか。
メンデルスゾーンの英国滞在は数週間に及びましたが、メンデルスゾーンは女王から
と二度目の招待をうけます。
二度目の王宮訪問で女王の楽譜コレクションに自分の作品8の歌曲集があることに目をとめて、メンデルスゾーンは女王に
とお願いします。
名歌手だったヴィクトリア女王は二つ返事で引き受けます。
アルバート公にピアノ伴奏させて、作曲家自身の前で、彼女のお気に入りだという、ある名作を見事にうたい上げたのでした。
という歌詞で始まる名歌曲、作品8の3。
メンデルスゾーンは女王の長く伸ばすGの音(ドレミファのソ)の音程の正確さ、技巧の高さを的確に褒めて、女王の歌唱の素晴らしさに感嘆しますが、メンデルスゾーンは女王にこうも語ったのでした。
ヴィクトリア女王は驚きましたが、正直にファニーの作品であると認めた大作曲家の誠実さを褒めて、動じることもなく、それでは貴方の作曲も歌いましょう、と曲集のフェリックス真作の歌も同じように見事にうたい上げたのでした。
でもさすがは女王様、スラリとややこしい事情はかわしてしまう(女性は作曲家になれないという事情を咄嗟に理解されたのでは)。
メンデルスゾーンは王宮に二度も招待してくれた返礼として、若き日の英国旅行にインスピレーションを得て書かれた、交響曲第三番「スコットランド」を女王に献呈するのでした。
英国女王にふさわしい音楽でしょう。
フェリックスの最高傑作交響曲です。
もちろん全ての交響曲の中でも、最も魅力的な音楽のひとつ。
メンデルスゾーンはこのエピソードを家族に書き送って知らせていますが、ファニーがどういう反応を示したかが伝えられていないのが残念です。
なんとも愉快なエピソードです。
と女王陛下が歌った、作曲家の名で出版されていた曲は、実は彼女が尊敬する大作曲家メンデルスゾーン先生御本人の作品ではありませんでした!
というオチ。
この曲はとてもオペラ的。
ですので、より曲をオペラらしく引き立ててくれるオーケストラ編曲版もあります。
音楽の表現する感情の昂ぶりがなかなかユーモラスな佳品です。
「イタリア」という題名。
ドイツの詩人ヨハン・ドロイゼンによって書かれた歌詞はまだ見ぬ南国イタリアへの憧れで溢れています。
音符は上がったり下がったり飛び跳ねて、感情がコロコロと移り変わるさまが描かれている音楽。
また微妙な半音階の陰り方も素敵です。
フェリックスならば、憧れの国イタリアをもっと雄大に壮麗にうたい上げることだったでしょう。
ギリシア式建造物を思わせるような壮麗な音楽を書くのがフェリックスは得意(「スコットランド交響曲」や「フィンガルの洞窟」のように)。
または同じ音型が規則正しく、それでいて自由に展開してゆくバッハをロマン派にしたような音楽(夏の世の夢の「スケルツォ」や名歌曲「新しい恋」のように)。
でもファニーの音楽は、トウモロコシがあって、アロエがあって、オリーブがあって、みたいにいろんなものに目移りして、感情がハイになったり驚いたり笑ったり、キャーキャー黄色い声を上げて(笑)。
女の人(若い女の子)らしくありませんか?
男の作曲家にはなかなか書けない音楽だと、極めて男性的な脳を持つわたしはそう思うのです。
ピアノ伴奏が
六拍子のリズム(音符三つを一拍と数える八分の六拍子)をしっかりと刻みます。
このリズムに乗るメロディが、どこか後年のヴェルディの「ラ・トラヴィアータ」の浮かれた乾杯の歌にそっくり。
イタリアオペラの巨匠ジュゼッペ・ヴェルディの先取りといえるでしょうか!
いずれにせよ、フェリックスには絶対に書けなかった音楽です。
きっとファニーは作曲家として生きることが許されていれば、偉大なオペラ作曲家になれた人だったのでしょうね。
コミカルな音楽も書けたファニー!
以上が19世紀大英帝国の象徴ヴィクトリア女王のお気に入りだったファニー・メンデルスゾーンの歌曲「イタリア」のお話でした。
次は待望のピアノ曲のお話です。
3:「小夜曲(ノットゥルノ)」に続く