「本当の自分」に意味を問う〜哲学対話での気づきと揺らぎ〜
ずっと ずっと 参加したかった
哲学対話に 参加してみた
以前から 興味は持っていて
自分でも 開いたことはあるが
慣れている方の場に 参加したくて
今日はそこでの 思考の流れを
自分でも整理するために 書いてみる
その日のテーマとなった 問いは
これだ
本当の自分を探す 意味ってあるの
*
まず気になったのは
本当 という 言葉だ
本当 という言葉には
対義語として 偽物 という存在を
意図せずに 想像させる
真 か 偽 か
0 か 1 か
デジタルな 概念が含まれている気がする
でも 人間は そうじゃない
なだらかで ゆっくりと変化していく
となると ここでいう
ほんとうの自分 というのは
もう少し アナログな意味
今よりも 少しだけ 真に近いものと
そういう意味が 前提となる言葉に思える
*
意味を 考える際には
この 問いの背景を知った方がいい
本当の自分 という概念が
生活に 登場するのは
何かしらの 変化・変容の場面
わかりやすいのは 就職活動
本当の自分は何がしたいのか なんていう
問いを 誰もが自分に投げかけたはずだ
その時 今の自分から
ふりかえり や 対話をすることで
いらない常識 や 思い込みを捨てて
より 本当の自分に近づく
これが 本当の自分 を
知っていこうとする 背景だと思う
何かしらの 変化・変容の際には
少なくとも より 本当の自分で
選択した方が 良い選択肢なはず
だからだ
*
ここまでは 比較的 理性的に
問いに ついて 考えてきたけれど
一方で とても 感情的に
反応している 自分もいたことに
これらを 考えてから 気がついた
それは 意味ってあるの という
少しばかり 否定的な言葉 への
反応だと 思う
あるに決まっているじゃないか!
と 叫びたくなるような
自分が いる
それを 俯瞰すると
こう 本当の自分 に向かうことには
どことなく 希望の意味が 含まれている
本当の自分に なれば
もっと 幸せなはずだ
本当の自分に なれば
もっと 楽に生きれるはずだ
きっと もっと
似たような 言葉を使うならば
ありのままの自分 も
近いだろう
生きづらさの原因を
今の自分が 本当でなかったり
ありのままでないことに 原因を置き
その解消のために 向かうという構造だ
正直 真偽は 僕はわからない
でも そうであってほしいという願望がある
だからこそ 意味ってあるの? という
問いを 投げられると
反射的に あるに決まっているじゃないか!
と 思いたくなってしまう
信じきれていない 弱さがそこにある
そこに 救いを求めているんだと思う
*
と 問いに対して
解像度が 上がった時に
場での議論を 通じて
全く 違う観点の視点が 加わった
それは 知りたい本当 と
知りたくない本当 だ
本当の自分が 希望だ と
一つ前では 話をしたのだけれど
それは 全ての場合ではない
極端な 例を言うなら
戦争で 人を殺せるか
というような 問いに対し
本当の自分は どう思っているか
という 問いは 考えたくない
こうして 少し問いを立てるだけでも
ぞわぞわした 感触が身体にある
となると 本当の自分というのは
そこまで 絶対的なものではなく
また 希望に満ちた言葉ではない
あくまでも 変化・変容の場において
今よりも 何かがよくなった時の自分
のことを 形容する言葉として 使っていた
ということになるのかも しれない
*
ここまで 改めて
まとめて書いてみて
気がついたことが ある
何かが よくなった時のことを
本当の自分 と 形容して
なんとなく しっくりきていたということは
自分が というか さらには人間は
より善く 生きられるはずだ
という 思い込みが 底にあるように思う
でないと 本当 という
どことなく ポジティブな言葉を
そこに 当てはめないように思う
多分 それが 本当の生き方なんだ と
僕は そう 思いたいのだろう
となると さらに 問いが湧く
その思い込みは 正しいのだろうか
*
今日 思考するのは ここまで
哲学対話は 突然終わるそうだ
当日も それは いきなり訪れた
まとめたり 感想を言ったりして
すっきりさせて 終わることはしない
もやもやした まま
問いを抱えた まま
それでも なんていう充実感だろう
大切な問いだけに 集中して
思考を 巡らすこと
自分を正しく 使えたような
それこそ 本当の自分の使い方 が
できたような
そんな 気がした