「練馬」 8/15
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由梨絵さんとのデートまで、遂にあと一日というところまで来てしまった。今日は自分自身の身だしなみについて考えることにした。
毎日毎日女の事ばかり考えている無職。この世でもかなり下等な生き物だろう。下等上等。
下等で勝とう。
謎のスローガンを打ち立てた。ここまで来てネガティブになっていても仕方が無い。
私は行き着けであった低価格な美容室を予約した。練馬駅前、ミスタードーナツから程近い場所にある美容室だった。
以前私は練馬駅について「つまらない」とか「特出して秀でているものが無い」と評価した。
しかし改めて毎日このような記録を付けていて思う事がある。実のところ、私は練馬駅大好き人間なんじゃないのか?自宅から近いとはいえ毎日行っている。好きすぎるがゆえに文句を言いたくなるという、熟年夫婦的な関係なのかもしれない。認めざるを得ない気がした。
外に出るとまだ雨は降っていないようだがかなり空はぐずついているようであった。一面灰色の雲に覆われて、雷の音が微かに聞こえる。私は一度部屋に戻り傘を手に持った。
美容室では中年の美容師さんが私の担当になった。私はこの人の担当になる事が多いのでよく知っていた。向こうが私を知っているかは定かではない。
髪は短髪で、白髪も多少目立ち始めている、背の低い細身で丸顔の男性である。髭面でもあるのだが、不思議と清潔な印象で笑顔の似合う人だ。
美容室自体、あまり頻繁には来ないのだけれど、練馬に引っ越してきてからの二年間はここにしか来ていないものなので、流石に彼は私の事を覚えたようだ。会うなり笑顔で久しぶりですね。と言われた。
以前から思っていたが、彼は自分の話をするのが上手い。年齢は今年四十歳で家族は妻と娘が一人らしい。娘さんはは去年から小学校に上がって、かわいくて仕方が無いらしい。幸せな話しかしない彼に私は好感を持っていた。
卑屈という刺青を背中にでかでかとしかも明朝体でガッツリ彫っているので、私は他人と自分を比べてブルーになる事が多いけれど、基本的には他人にも幸せを願っている。他人に対して不幸になれとは思わない。私が私の人間性の中で数少ない好きになれる所でもあった。したがって彼の幸せな話は聞いているだけで楽しかった。
しかし私は口下手なので基本的には聞いて相槌を打つだけだった。先日由梨絵さんに相槌を打つのが下手だと指摘されたので、それもちゃんとできているかどうか今となっては疑わしい。
しかしどうやら、私は自分で思っている以上にデリカシーの無い人間だったらしい。話の中でこんな言葉が口から出た。
もし娘さんが大きくなって結婚する時が来たら、結婚相手はどんな人が良いですか?
娘さんを持つお父さんの気持ちは私には良く分からないけれど、答えにくい質問な上に失礼だと感じた。私は既に後悔していたが彼はその質問にすら、そうですねえと楽しげに考えてくれた。
「嘘を付かない人が良いかな。自分の言った事に責任を持てる人って感じかなあ。まだ娘はちっちゃいから分かんないですけどね」
そう言って照れ笑いをした。彼はすばやく動かしていた櫛と鋏を一旦止めてまで、真面目に答えてくれた。私はそれを聞いて、ロンギヌスの槍で串刺しにされたエヴァンゲリオン二号機のような思いだった。きっと彼もそういう人なのだろう。人として眩しかった。
大事な事ですね。
私にはそう答えるのが精一杯だった。嘘と言い訳が降り積もって出来た人間としては、シンプルなその言葉が返って深く胸に響いた。あとでメモしておこうと思う。そして次に髪を切る時もきっとここに来ようと心に決める。
店を出るとき、彼は笑顔でありがとうございましたと頭を深々と下げてくれた。私こそありがとうと言いたかった。
次に私は服を買うことにした。貧乏なので一式揃えることは出来なくても、シャツの一枚くらいは新しいものにしようと思った。
さて、練馬駅にはユニクロもある。こういった場合ユニクロがあれば大抵のものは買える。したがって私はユニクロに行く。
すべてのものは練馬駅で揃う。これからは練馬駅の魅力について啓蒙活動をしようと思う。しかし以前話した何でもあるが特出したものが無いという意見に、やはり反論できなかったので自分的練馬駅親善大使を辞退することにした。
ユニクロではシャツを一枚だけ買った。今の私が捻出できるギリギリであった。悲しいが仕方なかろう。それよりも、服屋における全体的な落ち着きすぎた雰囲気が苦手なので、さっさと用事を済ませて帰りたかった。およそ五分ほどでシャツを選んで会計も済ませた。
お店で働く人達は清潔で格好良く、私には全員光って見えた。真っ白のLEDライトくらい眩しかった。長居すると視力に悪影響が出るに違いない。そういった理由でも早く退散したかった。
買い物を済ませた私はお馴染みの駅前を歩いている。空は未だにたまにごろごろとぐずついているだけで雨は降っていない。
あのミスタードーナツ練馬駅前店には、結局あの日以来立ち寄っていなかった。丁度横を通り過ぎた際、私は喫煙席がある二階席を見上げた。
明日なのか。いよいよ。
決意に燃えた。一体何のための決意なのかは良く分からなかった。私はドトールコーヒーで日課を済ませる事にする。
時刻は丁度正午辺りだった。普段通り私は喫煙席に居座る。
すると隣の席には高価そうなスーツをびしっと着込んだインタビュアー風の男性がマイクを私に向けていて、こんな事を言ってきた。
Q.あなたにとって居座る事とは?
私は答える。
A.呼吸と同じ事ですね。生きる上で欠かせないことの一つになっています。
居座リストの朝は遅い。基本的にただの暇人だからである。そしてそんな男性など居ない。ただの私の妄想である。
今日は正午を回っても、ドトールコーヒー練馬駅前店喫煙席恒例の(高齢の)ジジイ会議は依然盛り上っていた。しかしやはり特出して書きたくなるような話題がほとんどない。ここまではっきり他人の話し声が聞こえるというのも珍しいのでつい聞いてしまうのだけれど。
ジジイ達はプロ野球や甲子園の話題で盛り上っていた。現在絶賛開催中のリオオリンピックの話もしていた。ジジイ達はスポーツ観戦が好きなようだった。私はというとスポーツを観戦するのは嫌いではないが、熱心に応援しているチームや選手が居る訳ではないのでジジイ達の熱の篭もった話には着いていけなかった。
今年は平成二十八年、西暦で言うと2016年になる。次回、東京でオリンピックが開催される丁度四年前であった。
ジジイ達はそれについても触れていた。
「俺達はさあ、次の東京オリンピックなんて見れるかどうかもわからんからな。前の東京オリンピックは凄かったよ。次のオリンピックは今の若い子達のもんだな」
それを聞いて私は何故か猛烈に寂しさを覚えた。ジジイ達とは知り合いでも親類縁者でも何でもないが、そんな寂しい事を言うものじゃないと反論したかった。きっとジジイ達は見るべきだ。このジジイ達が東京オリンピックを見られないのだとしたら、世界はきっと間違っている。
もしそうなってしまったら私はイタコの修行をしようと思う。発言を撤回する。そんなこと出来る筈もない。
しかしジジイ達にオリンピックを見せてやりたかった。しかし時間は無常にも全員平等に流れていく。私も何も成せぬまま二十七歳になってしまった。
ジジイ達が自分の四年後について先が見えないのも無理は無い。
四年後に東京オリンピックが開催される時、私は一体何をしているだろう。四年はおろか一年、いや一ヶ月先ですら深くて濃い霧に覆われて先の見えない私の人生では、想像すら出来なかった。きっとジジイ達は私などとは比べ物にならない程人生の終わりとしっかり向き合っているのだろう。そんな寂しいセリフを持ってしても、不思議と口調には悲壮感が無かった。清清しい印象すらある。
私はというとどんな小さな悩みでもすぐに頭を抱えたままうずくまってしまうのであった。
きっとただのあまえんぼうなのだ。
私はこの事をメモ帳に記録しておこうと思う。携帯電話を取り出し書き始めた。
隣の席には若い男性が座っていた。ノートや参考書を机に広げて何かを熱心に作業している。大学生だろうか。私は君の未来に幸あれ、と心の中で呟いた。
ジジイ達は十三時を回った所で、恒例の(高齢の)「やいやいもうこんな時間だよ」宣言をして帰っていった。
静まり返った喫煙ブースにはただただ煙が舞い踊っていた。皆の煙が混ざり合って霧の様になっていく。天井辺りで排気口に吸われるその時まで自由にふわふわ漂っている。いつかは排気口に吸われてしまう運命なのを彼らはまだ知らないようだ。
いよいよ何も考える事は無いような気がした。
いや、ある。明日の事について考えよう。大事な事だ。何しろ私はデートを今までに一回もしたことが無い。かなり恥ずかしい。
恥ずかしいと思う事が正に恥ずかしい。全体的な思考が恥ずかしい。
無限回廊に入って行きそうなので引き返す。
一回もしたことが無ければ想像しかできないが、一応シミュレーションをしてみることにしよう。出来る限り明日に向けての準備はもう済ませた。今の私に出来ることはそれくらいの事だろう。
そもそも由梨絵さんは明日、私をどこに連れて行く気なのだろうか。きっと聡明な彼女の事だから、私の財布に最大限気を使ってくれるのだろう。
世の中における基本的なデートとはどこに行くことだろうか。遊園地、ショッピング、映画鑑賞、などだろうか。
映画であれば私の財布でも大丈夫そうだ。しかしこれはおすすめ出来ない。映画自体は問題ない。しかし見終わった後が怖い。私は恐らく空気を読まずに感想を言うだろう。そういう人間に違いない。
彼女と意見が食い違ったときどんな空気になるか想像もできない。もし言わなかったとしても態度には確実に出る。浅ましい種族だ。しかしもし映画鑑賞だとしたら事前に危険回避のシュミレーションをした方が良さそうだった。私は思案する。
ではこうしよう。映画の感想はどんな場合でも「面白かった」と言う。それ以外は言わない。以上シミュレーション終わり。
ショッピングや遊園地に関しては、正直シミュレーションをしようも無かった。あまりに未知の世界すぎる。出たとこ勝負をする他ないだろう。
私の浅い想像力では、以上の事くらいしかシミュレーションが出来ないようであった。これ以上考えた所で何も出てこない。
出てくるのは妄想ばかりである。
私の少し先を悠々と歩く彼女の姿だけがさっきからイメージに張り付いていた。たまに振り返って、楽しげに私の目をまじまじと見て話す彼女は相も変わらず眩しかった。
美しいストレートヘアーが歩くたびにひらひらと舞う。余りに軽々と揺れるので、彼女の周りだけ重力が弱いのかもしれないと私は思う。
妄想の中の映像は彼女にだけフォーカスが合っていて、それ以外のものはぼんやりしていた。
空は最高に晴れていた。ぴーかんであった。
妄想の世界から帰還した。ここはドトールコーヒー練馬駅前店、喫煙席ブース。隣に居た大学生の姿はもう無かった。居座リストは人を見送ってばかりだ。
時刻は十五時を回っていた。今日も昨日と同じように時間だけは等しく過ぎて行く。
いつもより少し早い気がしたが、自宅に帰ることにした。
自宅に着いた私は舞い上がりに舞い上がり続けたここ数日間が嘘のように落ち着いていた。明日のデートは私にとって未知の世界ではあるが、世の中にとっては特別な事ではない。ただ二人の男女が集まって遊ぶだけだ。そのような事はこの世にとって当たり前の事象。以前も今もこの先も、きっととても普通な事なのだ。そんな事を考えていた。
この事をメモ帳に記録しておいた。
昨日の私も今日の私も、そして明日の私もきっと特別でなく異常でない。安心しろ。きっと大丈夫だ。
寝るには少し早い時間ではあったがベッドに横になった。なるべく何も考えずに眠りに着いた。
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著/がるあん
イラスト/ヨツベ
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