思考の習慣に対する向き合い方
感情にまかせてとったその行動は、 正しいと言えるのだろうか。。
ある人の言動で、嫌な思いをすることが先日あった。
こんな時、私はその人と関わらないように距離をおいたり、無視をしたりする行動を取りやすい。
誰か特定の 人に対して、 負の感情を抱いた時、選択肢としていろんな行動の仕方があると思う。
その行動に対して、 自分なりの理由や理屈付けをし、自分を正当化する。
感情は 自分の本音を 映し出す 鏡と 言われている 。
ただそれは、 人それぞれ思考の癖というものが存在し、何に対して反応し、行動し、意味付けをするかは、脳がシナプスを介して科学的な 反応として機械的に行っている要素もある。
問題は、それが 生産的なものであれば良いのだが、 今までの 自分の 生き方を振り返ってみると、 残念ながらそうともいえない。
感情は、思考の癖という点から視れば、 思考の習慣ともいえ、私というものを構成する一部分でもある。
その思考の習慣ひとつひとつが、生きる上で足かせ手かせになってしまっているものも沢山存在すると思う。
人に対して負の感情を抱いた時、頭の中はその人の嫌な部分だけを映し出し、その人の全体像はぼやけてしまう。
私も相当癖のある人間だ 。
知らず知らずのうちに人を傷つけているということは大いにあり、お互い様なのだと思う。
こんな感情になった時、最近こんな思考をよくする。
自分はなぜそんな気持ちになったのか、
相手はなぜそんなことを言うのか、
自分や相手の全体像はどうか。
それに伴った私の行動は、人生を豊かにするものなのか。
思考の習慣は、長年染み付いた反射的な側面もあり、変えていくのは相当手強いかのかもしれない。
しかし、何度でも見つめなおし、新しく行動していけば、アップデートした自分になれるはずた。
いや、結果を求めるものではない。
そういった心の在り方や生き方が、きっと人生を豊かにするのだと思う。
感情は 無視するものではないし、抑え込むものでもない。
適切に向き合う対象なのだと思う。
今回、負の感情を抱いた人への関わり方を見つめなおし、自分の行動を変えた。
私が変われば、相手の行動も変わることはよくあることだ。
相手にも変化があったように見えた。
私の人生からみれば、今回のことも案外どうでもよかったことのように思う。
穏やかな気持ちになれた一日であった。
読んでいただき、ありがとうございました。