無駄を愛せよ
なにかをするとき、なるべく効率よくできるように、
やる前にちょっと考える。
たとえば家事がいい例だ。
料理をつくっているあいだに米が炊きあがるようにするには、料理の下ごしらえからすべきか、米を洗うべきか。
朝ごはんを食べなければならないが洗濯物もしないといけないとき、朝起きてから家を出るまでに、なにからはじめるべきか。
家中を掃除して回るとき、ふだんはやらないエアコンのフィルター掃除も行程に挟むとしたら、どこから手をつけるか。
考えた通りにうまくいくとうれしい。
「効率よく、手際よくできた!」、「無駄なくうつくしかった!」と思う。
ひとり暮らしの家の真ん中で、ひっそり「ドヤッ」とする。
しかし元来怠け者であるゆえ、この集中力は少ししか持たない。家事をしているあいだだけ。仕事をしている間だけ。そのあとの効率は割とどうでもよくなってしまう。
だから、どんな時も「なにかのためになっていないといけない」みたいな(だれからのものかわからない受け売りの)意識を、時々おそろしく感じる。怠け者は追い立てられたり急き立てられたりするのが苦手だ。そんなにずっと、意識高くいられない。
意味もなくだらだらしたり、寝たり、
そういう「何者でもない自分の何物でもない時間」が案外好きだったりする。生産しないこと。なんのためにもならないこと。別に、あってもいいじゃない。
そういう無駄を、私は愛する。
そういう無駄は、実は無駄じゃなかったりする。
そんなに無駄を毛嫌いしなくても良い。無駄なことはたいてい「味」があるのだ。邪険に扱うのではなく、おもしろがればいい。ビバ、無駄(無駄は愛せるけど不毛は愛せないなぁって、いま思った)。
なにかと様々なことが「コスト」と捉えられる時代だ。時間もお金も労力も。結果にいかに早く結びつけるか。やっていて意味のあるものなのか。どうしても最短距離でのたどり着き方をいちばんに考えてしまう。でも、移り変わりが早くて先が見えにくいからこそ、多少の無駄は覚悟で、とりあえず動くことが大事なんじゃないか?
なにかをする前にそれが「無駄か、無駄じゃないか」を議論するのがいちばん好きじゃない。その時間は不毛だから、やりたければやるし、やりたくなければやらない。事態が好転するならやるし、しそうにないならやらない。それでいいと思う。
あらゆる意味で、無駄を愛せよ。
無駄をこわがらず、無駄と仲良くなれよ。
最後まで読んでくれて、ありがとうございます!