心なんてなければと
心なんてなければと、なくなればとよく思います。
そうしたら小さなことで傷つかなくてよいし、傷ついた自分を情けないと思わなくて済みます。
他の人の目を気にしなくてよいし、他の人の目が異常に気になる自分に何度も落胆することもなくなります。
誰かの気持ちをわかろうとして、でもわからなくて、疲れてしまうこともなくなります。
勝手に「期待に応えられていない」と思って落ち込む自分、精神的に弱い自分、面接で話す用の「長所」と「短所」を永遠にぐるぐる考えてしまう自分ともさよならできます。
一度「死にたい」と思うと、「死にたい」の声がいくつも頭の中に響いて、自分では止めることが難しいときがあります。
一度だけTwitterで「死にたい」とつぶやいてみたことがあります。
すぐに消しましたが、つぶやいたその一瞬だけ、気が楽になったように感じました。
「死にたい」とつぶやいた一瞬だけ、この世界から消えて、また新たな世界に生まれたような気持ちになりました。
私は今はやりのHSPなのかもしれません。
自分のことをHSPと認めることで楽になるという方はたくさんいらっしゃると思うし、楽になるのならそれでよいと思います。
しかし、私の場合は、自分をHSPだと断定するとそれに甘えてチャレンジすることをさぼってしまう気がします。
「やっぱりHSPなんじゃない?」と思うときもありますが、それと同時に頭の中のもう一人の私が、「だからなんだ」と繰り返し言ってきます。
心がなければよいのにと思います。
人の気持ちがわからなくなるでしょう。
本や映画に感動しなくなるでしょう。
美しい景色を見て「美しい」と涙することもなくなるでしょう。
でも、それの何がいけないというのでしょうか。
たまに、心があることにとても疲れてしまいます。
ロボットのようになれたらとても楽だろうにと思います。
もちろん、心を助けてくれるのはまた心であることもわかっています。
人に気にかけてもらった思い出や大切な人と過ごす時間はかけがえのないもので、そういうものによって心が救われる日もたくさんあります。
でも、私が本当に辛くてしかたなかったとき、私を助けてくれたものは何もなかった。
もちろん、全く何もなかったわけではないだろうと思います。周りの人々に助けられたこともたくさんあったし、私はその人たちへの感謝を忘れてはいけません。
でも確かに、時間によって解決された部分も多かったのです。
本当に人は、つらいとき、他の人間や心によって救われるものなのでしょうか。
心がなくなればいいと、常に思っているわけではありません。
でも、ふとしたときに、「心なんて」と思ってしまうときがあるのです。