騎馬民族征服王朝説について
江上波夫氏の騎馬民族征服王朝説について多くの批判があります。一世風靡の学説であったために、多くの注目をひき、多くの批判を浴びています。
確かに論証できていない部分が多く、学説としては失敗しています。しかし、江上説を否定している人が4世紀末から5世紀初頭(370年から430年まで)の正しい歴史観を提示出来ているかというと、全く提示できていないのが現状です。例えば仁徳陵と応神陵がなぜ超巨大になっているか説得力のある説は提示されていません。白石太一郎氏のように百舌鳥と古市の勢力の間で盟主権が交互に交代していたなどという洞察力のない説しかありません。
江上波夫氏の主張はエキスだけを言えば「もと騎馬民族であった扶余族系の王権が倭国に入っているのではないか」ということです。騎馬民族と言わないで扶余族と言った方がよかったかもしれません。しかし、東洋史学者として匈奴、鮮卑、突厥などの北方騎馬民族を長年研究をしてきた江上氏は東洋、そして世界の諸国家で、農耕民族の国は他国に侵攻することはないが、騎馬民族の国は他国に侵攻する特徴があることに気がついたのでしょう。扶余族は騎馬民族か農耕民族かと言えば騎馬民族という判断になったと思います。事実、扶余族の王族が南進して高句麗を建国し、高句麗の王族が南進して百済を建てています。南進して建国するというこの事実は騎馬民族の特徴を示しているとも言えるのではないでしょうか。
百済には温祚百済と沸流百済があり後者はミチュホとも言われていました。温祚百済は南進していませんが、その南にいた(私見)沸流百済が南進してもおかしくありません。また扶余族とは別に北方騎馬民族の一派が加羅諸国に侵攻してきていることも現在、分かっています。こうした状況の中で370年から430年の倭国の歴史を考えるべきだと思います。ちなみに倭国は「みずほ」といった時代があったことも忘れてはならないでしょう。みずほが水穂だというのは子供だましです。また半島の「チュ」という発音は倭列島では「ツ」という発音に変わることも指摘しておきましょう。ミチュホはミツホに変わるのです。
「騎馬民族征服王朝説」の修正説として最近、『真実を求めて 卑弥呼・邪馬台国と初期ヤマト王権』を出版しました。ご検討、ご批判をいただければ幸いです。